大籠村(読み)おおかごむら

日本歴史地名大系 「大籠村」の解説

大籠村
おおかごむら

[現在地名]藤沢町大籠

保呂羽ほろは村の南にある。北は大峰おおみね山、東は長崎ながさき(三五一・二メートル)、西は高城たかぎ(二六八・九メートル)など、三方を山に囲まれ、北西から南東に細長く延びる。やや中央を大籠川が南東流、東端を千松せんまつ川が南流し、二股ふたまた川に注ぐ。南は狼河原おいのかわら(現宮城県登米郡東和町)。地名は大野東人が東北遠征の折、神明社に三度祈って当地の賊加漢丸を破ったという神の加護によるとも、藤原秀衡が平泉より大駕籠に乗って当地に来たことにちなむとも伝える。古くは陸奥本吉もとよし郡に属したといわれる。永正元年(一五〇四)正月一一日の葛西政信宛行状写(大津保首藤文書)に「本吉大籠之内弐千苅」とみえ、首藤相模守に宛行うとある。天正一七年(一五八九)九月一五日付の砂金二五〇目受取りを伝える葛西晴信書状、同一八年七月二九日付の晴信の書状(以上大籠首藤文書)はいずれも本吉大籠郷の須藤伊豆守に与えられている。元和(一六一五―二四)頃当村南部が分れて登米とめ郡狼河原村に属したとも、寛永年中(一六二四―四四)磐井郡になったともいわれ(「管轄地誌」など)、おそらく同一九年の検地時に本吉郡から磐井郡へ編入されたのであろう。

寛永一三年玉虫次郎左衛門に知行地として宛行われた東山藤沢左沢ひだりさわ村一〇貫九五八文は、当村小名左沢をさすか(「伊達忠宗領知黒印状」伊達家文書)。同一九年の大籠村検地帳(藤沢町史)によれば、田方一四町四反余・代一六貫三五九文、畑方五七町一反余・代一二貫七四一文(うち屋敷四町余・代八三七文)、茶畑一畝余・代二四文、名請人数二八。正保郷帳では田一五貫九八八文・畑一二貫六八五文、ほかに新田四五一文があり、柴山と注記される。「安永風土記」では田一八貫六九二文・畑一四貫九二三文(うち茶畑二四文)、うち蔵入地五三六文・給所三三貫七九文。


大籠村
おおごもりむら

[現在地名]八女市大籠

忠見ただみ村の東にあり、南をやま川が西流、北側は丘陵地が続く。福島ふくしま町と星野ほしの(現星野村)方面に続く道が通る。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に大籠村とみえ、高一六四石余。本高は一五五石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高三四〇石・役高三三六石余。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高三三七石、文化四年(一八〇七)畝付帳では本田一二町七反余・畑田三町九反余・畑二町九反余・居屋敷三反余。


大籠村
おおごもりむら

[現在地名]長崎市大籠町

深堀ふかほり村の南にあり、西部は海に臨む。新田義興を祀る新田につた神社があり、付近より箱式石棺が出ている。江戸時代は肥前佐賀藩家老の深堀鍋島家領で、深堀郷に属する。慶長国絵図に「深堀ノ内 大籠村」とあり、正保国絵図では高三〇石余となっている。寛文四年(一六六四)の鍋島光茂領知目録(寛文朱印留)にも大籠村とみえ、元禄国絵図では高三〇石余。玄梁院代配分村付帳では鍋島領として地米高二一石余(大小配分石高帳でも同様)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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