大蕨村(読み)おおわらびむら

日本歴史地名大系 「大蕨村」の解説

大蕨村
おおわらびむら

[現在地名]八幡町大蕨

荒瀬あらせ川上流右岸の山間の村。常禅寺じようぜんじ村の東にあり、南は荒瀬川を境に下南青沢しもみなみあおさわ村。山間のため東から若神子わかみこ前貝ぜんかい二タ子ふたご黒沢くろさわわき後ロ山うしろやま石田いしだ古升田ふるますだと山沿いに小集落が点在し、観音寺かんのんじから最上郡に通ずる青沢越あおさわごえ街道が当地を通る。地内には灌漑用溜池が多く、前貝溜池二ヵ所、新出しんで溜池・古升田溜池がある。二タ子に縄文時代と平安時代の集落跡、前貝に観音寺城の見張台前貝館跡がある。天正六年(一五七八)一二月一五日、武藤義氏が木(来)次孫四郎に宛てた充行状写(別集奥羽文書纂所収文書)にある来次氏の所領「両河内」とは、当村をはじめとする荒瀬川と日向につこう川流域の山間の村々をさすとされる。


大蕨村
おおわらびむら

[現在地名]山辺町大蕨

杉下すぎした村の南西に位置し、白鷹しらたか丘陵北部の鳥海山南麓にあたる山野辺やまのべ村から当地を経て現西村山郡朝日あさひ町を中心とする五百川いもがわ峡谷方面へ抜ける道が通る交通の要地である。枝郷として荒谷あらや合野沢あいのさわ(相ノ沢)がある。慶長年間(一五九六―一六一五)稲村備後が一族一六名とともに庄内の鳥海山麓大蕨村稲村いなむらおか(現飽海郡八幡町)から当地に移住し開発したといい、備後は山野辺城主山野辺義忠から一千六〇〇束刈の土地を与えられたという。しかし、最上氏改易後帰農し、のち紅花・青苧などを扱う豪農となった。元和八年(一六二二)山形藩領、正保元年(一六四四)幕府領、貞享二年(一六八五)山形藩領となり、翌三年藩主堀田氏の転封により陸奥福島藩領、元禄一三年(一七〇〇)山形藩領となる。


大蕨村
おおわらびむら

[現在地名]塙町大蕨

山形やまがた村の南、川上かわかみ川上流域の山間に立地。同川支流那倉なぐら川が地内で合流する。江戸時代の領主変遷常世北野とこよきたの村と同じ。正保郷帳に村名がみえ高一五三石余、うち田九〇石余・畑六三石余。元禄郷帳では高二四五石余、枝郷の折籠おりかご村の高五〇石。元禄一五年(一七〇二)の水帳町反分米寄目録写(塙町史)によれば反別六二町九反余、分米三一八石余(うち蔵屋敷分二斗余は年貢免除)、うち古高二〇五石余・改出高一一二石余。慶応元年(一八六五)村差出帳(同書)によれば家数一五、人数九七(男五五・女四二)、馬七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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