日本大百科全書(ニッポニカ) 「天満青物市」の意味・わかりやすい解説
天満青物市
てんまあおものいち
江戸時代から昭和初期までの大阪天満(大阪市北区)で栄えた蔬菜(そさい)市場。石山本願寺門前町時代および豊臣(とよとみ)氏の大坂城時代から京橋界隈(かいわい)で自然発生的に生まれていた大坂の青物市は、慶長(けいちょう)・元和(げんな)の陣で離散したが、1616年(元和2)淀(よど)川右岸の大手前一丁目(中央区)の淀屋个庵(こあん)屋敷跡に復活し、これが天満青物市のおこりとなった。同地は1653年(承応2)天神橋北詰より竜田(たつた)町(北区天満三丁目)に至る地域に移転し、幕府公認の市となった。そのころまでは生塩魚および乾物市場も含んでいたが、まもなく生塩魚市は本靭(もとうつぼ)町(中央区)に、乾物市は天満七丁目に移った。天満青物市は周辺農村の青物生産と水運の便によって畿内(きない)随一の蔬菜市として栄えた。貨物が送られてくる地域は五畿内から丹波(たんば)、播磨(はりま)、近江(おうみ)に及んだという。1772年(安永1)には冥加金(みょうがきん)を上納して、問屋株40枚、仲買株20枚を免許され、蔬菜取扱い、価格決定などについての権益を認められた。幕府は天満青物市の権益を保護し、他に類似の市の出願があってもなかなか認めなかった。江戸後期になると、農民の手による青物市が諸所に出現し、天満市の独占は脅かされるようになった。明治維新以降も存続し、1893年(明治26)には「天満青物市場仲間規約」を定め、府知事の許可を受け、新しい組織となった。1915年(大正4)業者の大部分は淀川埋立地に移転し、これが公認の天満市場となったが、一部の業者は旧地にとどまり、これは天満旧市場とよばれた。1931年(昭和6)大阪市中央卸売市場が成立し、天満市場はその配給所となり、1942年大阪市に中央卸売市場分場として買収されたが、1945年3月空襲により焼失した。
[宮本又郎]