堂島川の中洲をいう。西流してきた堂島川が島の東端で北の
明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図によれば南西部分はまだ開けておらず、
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大阪市北区内の地名で,堂島川北岸一帯をいう。もと曾根崎川(蜆川)と堂島川とにはさまれた砂州で,広い意味の天満(てんま)に含まれる。地名の由来については,(1)四天王寺を玉造の岸に創建したとき,風波によって御堂の用材がこの地に流れついたため,(2)あらかじめ堂の用材を置いたところ,(3)流水が南北に分かれて,その中にあるため胴島といい,転じて堂島となったという説のほか,(4)二つの川(革)にはさまれた地であるため,鼓の筒にたとえて筒島(どうじま)といい,それが転化したものとも伝える。はじめ天満村と呼び,大坂三郷のうち北組と天満組の加郷であったが,人家が増加するにしたがい,一部に堂島船大工町など5ヵ町(古町)が形成されて,のち天満組に属した。1686年(貞享3)河村瑞賢の曾根崎川・堂島川改修のさい,新地5ヵ所(家数370軒)が加わって,88年(元禄1)町割りが実施され10ヵ町が増加,合わせて15ヵ町となる。このとき新地繁栄策として茶屋株,風呂屋株,煮売屋株,湯屋株が許され,しだいに発展した。97年には米市場が中之島から移転。1716年(享保1)隣接の曾根崎新地から出火して258軒が焼失したが,27年には米仲買株を許され,米仲買,両替屋が軒を並べる町になった。舟運の利便から,対岸中之島とともに諸藩の蔵屋敷が集中,堂島米市場は諸国米市場の中心的存在として,ここで立てられた相場が全国の規準となった。明治維新後は工業も進出し,五代友厚の朝陽館製藍所のほか,渋谷紡織所(のち堂島紡績所)も設けられ,また大阪商法会議所(のち大阪商業会議所→大阪商工会議所)や大阪堂島米商会所なども設けられ大阪経済の一中心となった。大阪市庁や大阪高等商業学校(現,大阪市立大学)などが置かれたこともある。
執筆者:藤本 篤 埋立地を含めた堂島の北の曾根崎新地は,梅田を中心とする〈キタ〉の繁華街の一画をなし,バー,クラブ,料亭,飲食店が軒を並べるが,堂島東部地区は中高層のビルが集中するオフィス街で,新聞,テレビのマスコミ機関が多く,大阪の都心地区の一部を形成する。西部地区には大阪大学付属病院(1993年吹田市に移転)や倉庫,ビルが立地し,四ッ橋筋の地下にはドウジマ地下センターの商店街がある。
執筆者:服部 昌之
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大阪市北区・福島区の堂島川北岸,御堂筋(みどうすじ)以西一帯の地区名。名称の由来については,古くは堂島川と曾根崎川にはさまれた島であったため胴島といった,また川を革と読みかえて革にはさまれた鼓(つづみ)の筒にたとえて筒島とよんだのが転訛したなど諸説ある。1697年(元禄10)に対岸の中之島から米市場が移転し,天満(てんま)青物市場・雑喉場(ざこば)魚市場とともに,大坂の3大市場とよばれた。1730年(享保15)には米相場会所が設けられて,全国米取引の中心となり商業地域として発展。諸藩の蔵屋敷が中之島についで数多くおかれたが,近代に入り各種企業の本社・支社や新聞社などが集中して,都心部ビジネス地区へと発展した。
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