日本大百科全書(ニッポニカ) 「天道流」の意味・わかりやすい解説
天道流
てんどうりゅう
近世剣術の一流派。天流ともいう。流祖は永禄(えいろく)~天正(てんしょう)ごろの人、斎藤伝鬼房隆秀(でんきぼうたかひで)(伝輝房勝秀)(1550―87)。伝鬼房の伝記は明らかではないが、常陸(ひたち)国真壁(まかべ)郡井手(いで)(筑西(ちくせい)市)の人で、幼名を金平(きんぺい)、また主馬助(しゅめのすけ)といい、父は北条氏康(うじやす)に仕えて小番衆であったと伝えられる。初め塚原卜伝(ぼくでん)の新当流を学んでその妙を得、ついで鎌倉八幡宮(はちまんぐう)に参籠(さんろう)して一流を編み出した。のち上洛(じょうらく)して三礼の太刀(たち)を天覧に供し、判官に叙任し、入道して井手判官入道斎藤伝鬼房と称した。帰郷後は下妻(しもづま)城主多賀谷重経(たがやしげつね)らに教授して、なかなかの威勢であったが、1587年(天正15)神道流の桜井霞之助と試合して勝ち、その遺恨によって桜井の一党に謀られ、真壁の不動野(ふどうの)で奮戦むなしく惨死したと伝えている。門弟としては実子の斎藤法玄(ほうげん)や猪野金弥(いのきんや)、小松一卜斎(いちぼくさい)、小山田貞重(おやまださだしげ)らの名があげられるが、法玄の子斎藤牛之助(3代)は江戸で活躍し、刀槍(とうそう)のほか薙刀(なぎなた)、鎖鎌(くさりがま)などを教授した。その門人日夏喜左衛門重能(ひなつきざえもんしげよし)は、槍法に至妙を得て、のち江(ごう)州に帰り、天道流を西国にもたらした。重能の子弥之助能忠(やのすけよしただ)は丹波篠山(たんばささやま)藩に仕え、その子弥助繁高(やすけしげたか)は『本朝武芸小伝(ほんちょうぶげいしょうでん)』の著者として有名である。この系統から明治年間、14代美田村顕教(みたむらあきのり)が出て、大日本武徳会を中心に天道流薙刀術の普及に努めた。
[渡邉一郎]