日本歴史地名大系 「天間村」の解説 天間村てんまむら 静岡県:富士市旧吉原市・鷹岡町地区天間村[現在地名]富士市天間入山瀬(いりやませ)村の西、潤井(うるい)川左岸に位置する。天間沢(てんまざわ)川が南下して、潤井川に合流する。〔中世〕中世は富士上方(かみかた)のうち。天万・天馬・伝馬とも記される。現富士市天間一帯に比定される。康永四年(一三四五)三月一〇日の富士直時譲状写(大宮司富士家文書)に「富士郡上方天万郷」とみえ、富士浅間社(富士山本宮浅間大社)大宮司富士直時は、当地ほかを弥一丸に譲っている。天文二〇年(一五五一)九月二三日、天馬郷の本地分・増分共の年貢米銭が富士浅間社の護摩領として同社別当宝幢(ほうとう)院の僧増円に安堵されている(「今川義元判物」宝幢院文書)。弘治三年(一五五七)一一月二六日、今川義元から宝幢院増円に富士浅間社別当職・別当領が安堵されているが(「今川義元判物」同文書)、これは今川氏親時代に、先別当少将竜恵が別当領の伝馬郷を沽却してしまい、氏親が買いもどして新寄進したが、買得人の一人渡辺善右衛門尉から沽却証文一通を譲られていた中野藤兵衛尉が証文に書入れをして当郷の年貢を押領したため、再度安堵の判物を下したものであったという。 天間村あままむら 大分県:別府市天間村[現在地名]別府市天間鶴見(つるみ)山の一峰である伽藍(がらん)岳の北西に位置し、十文字原(じゆうもんじばる)高原から流出する津房(つぶさ)川の段丘上に集落がある。東は南畑(みなみはた)村、南は塚原(つかわら)村(現湯布院町)、西と北は豊前国宇佐郡東椎屋(ひがししいや)村(現安心院町)。永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職等注進状案(大友文書)に由布院(ゆふいん)に属する「天間」がみえ、大友惣領家の所領であった。江戸時代の領主の変遷は東畑村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に天間村がみえ、高一二六石余、家数一二・人数七七、牛一六・馬三。正保郷帳によると由布院に属し、田方五七石余・畑方三六石余。正保二年(一六四五)の日出藩領絵図(大竹家蔵)によると、別府村から安心院(あじむ)(現安心院町)に通じる道が村中を通り、津房川には「小手吹の渡り」があった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by