東畑村
ひがしばたむら
[現在地名]海南市東畑
亀の川の源流域に位置し、白髪峠(四五〇メートル)から北の一峰山(三三〇メートル)へ延びる尾根の東斜面に立地。名草郡に属し、尾根を境に東は那賀郡。緩斜面を利用して棚田が開かれ、標高三〇〇メートルから谷底の六〇メートルの地点に耕地が分布する。集落の中心は二五〇メートル前後の地点である。南北三・五キロ、東西一キロの細長い村である。
西隣の扱沢村が古く西畑村とも畑村ともよばれて、嘉暦二年(一三二七)の間藤家文書などにすでにみえることからすれば、東畑の地名も古くからのものと考えられるが、文献にはみえない。
東畑村
ひがしはたむら
[現在地名]別府市東山 東山一区
大分郡内成村の北東にあり、鶴見岳南麓、由布川上流の高原に立地。府内・日田往還が通る。文禄二年(一五九三)に豊臣秀吉の蔵入地となり、慶長四年(一五九九)福原直尭領(「領主并村々覚」関家文書)となる。同五年二月細川忠興領となるが(「速見郡・由布院知行方目録写」北九州市立歴史博物館蔵)、同六年細川氏が豊前中津に移り幕府領(細川家臣松井康之預地)。細川氏は同七年には小倉に移り小倉藩の預となる。
東畑村
ひがしはたむら
[現在地名]吉永町多麻
滝谷村の東、八塔寺川の支流沿いにさかのぼった台地上にある。東は播磨国。元禄一三年(一七〇〇)国境改が行われ、当村北の家端より国境の黒岩まで四町二一間(撮要録)。慶長一八年(一六一三)の和気郡御勘定帳に八塔寺と肩書して村名がみえ、物成七〇石余、夫米四石余。寛永備前国絵図によれば高八五石余。「備陽記」では田畑一〇町六反余、家数三〇・人数一六二。
東畑村
ひがしばたむら
[現在地名]北区淡河町東畑
美嚢郡に属する。淡河川流域の山間に位置し、西は行原村。有馬街道が通る。慶長国絵図に村名がみえ、寛永四年(一六二七)には田方一六七石余・九町八反余、畑方二四石余・三町一反余、屋敷高六石余・七反余(美嚢郡誌)。正保郷帳によると田方一五六石余・畑方二五石余、「はへ山」あり、川幅一〇間歩渡と記される。元禄郷帳では淡河東畑村と記され、天保郷帳にも淡河と肩書がある。領主の変遷は南萩原村に同じ。明石藩領淡河組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると高一八二石余、人数一八八・家数二八。
東畑村
ひがしはたむら
[現在地名]嘉穂町東畑
大力村の南西に位置し、北から西は穂波郡弥山村(現筑穂町)。本村と鬼松に集落がある。初めは君畑村といったが、元禄(一六八八―一七〇四)頃に東畑村になったという(「郷村鑑帳」秋月郷土館蔵)。江戸時代の領主の変遷は椎木村に同じ。大力村の枝郷で、慶長五年(一六〇〇)に分村したとされる(「掌中秘記」同館蔵)。元和九年(一六二三)の知行高目録(「長興公御代始記」県史資料二)に千手村「但東分・北分・君ケ畑共」とみえる。寛永期(一六二四―四四)に村民四郎右衛門により開発が進んだという(郷村鑑帳)。元禄五年には君ヶ畑村の高二一五石余(田圃志)。
東畑村
ひがしはたむら
[現在地名]橋本市清水
紀ノ川南岸、国城山(五五二メートル)の中腹の山村で、西は西畑村。もと西畑村と一村で、「続風土記」は「此地山腹に畑を開き一村落をなす、後東西両村に分る、名義是より起る、村中多く葡萄を産す」と記す。応永二年(一三九五)一二月一〇日付の相賀庄在家帳(又続宝簡集)には東畑の在家九宇がみえ、松木・打原・ナヘヲの小地名を記す。同三年九月二〇日の相賀南庄田惣目録・相賀南庄畠惣目録(同集)には東畑・西畑を併せて畑村とみえ、下田三町八反余、分米一七石一斗余、下畠二町九反余、分麦豆五石余とあり、高野山領相賀南庄に属した。また相賀庄惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書)所収の天授三年(一三七七)頃の文書によれば、相賀大神社の八月放生会に畑村は米五升を納めていた。
東畑村
ひがしばたむら
[現在地名]精華町大字東畑
煤谷川の上流に位置する。集落は嶽山の中腹にあり、四境はすべて山に囲まれる。村の東方南稲八妻村から当地を通り、西南方大和国添下郡高山村(現奈良県生駒市)に至る道がある。
享保一四年(一七二九)山城国高八郡村名帳によれば、高三一三・六八石、すべて旗本筧新兵衛の知行。明治一〇年代の調べでは田二二町余、畑六町九反余、地味は「其色淡黒青錯雑シ、其質中等以上ニ属ス、稲粱ニ適シテ桑茶ニ宜シカラス」であるが、「水利極テ不便ニシ毎ニ旱害」という状態であった(京都府地誌)。
東畑村
ひがしばたむら
[現在地名]吉川町東田
市野瀬村の南に位置し、吉川川右岸の丘陵地に立地する。西は永門前村。慶長国絵図に「東早田村」とあるのが当村のことか。領主の変遷は市野瀬村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方二五三石余・畑方二三石余。元禄郷帳には「上吉川東畑村」と記される。村高は幕末まで変わらない。
東畑村
ひがしばたむら
[現在地名]岬町多奈川東畑
谷川村の南、東川の上流にある山間村。北部および西部は谷川村・西畑村と錯綜する。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に村名がみえ、高三四四石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳には三五二石余とあり、以後大幅な変化はない。領主の変遷は淡輪村に同じ。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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