宝幢院(読み)ほうどういん

日本歴史地名大系 「宝幢院」の解説

宝幢院
ほうどういん

[現在地名]常北町那珂西

那珂川西岸の台地上に位置する。境内は那珂西なかさい城跡本城の故地で、土塁と空堀が残る。泉山法厳ほうげん寺と号し、真言宗豊山派。本尊聖観音

石塚いしつか薬師やくし寺の前身佐久山浄瑠璃光じようるりこう(現新治郡八郷町)二世の上宥が応永三年(一三九六)上那珂西かみなかさいの村内に創建したと伝える。上宥は同六年ここで死去。のち浄瑠璃光寺三世で上入野の小松かみいりののこまつ寺の中興開山宥尊が兼帯。浄瑠璃光寺・小松寺とならび中世この地方に優勢を保ち、真言宗佐久山方の学問所として隆盛となる。


宝幢院
ほうどういん

[現在地名]香我美町岸本

岸本きしもと東部月見つきみ山西麓にある。真言宗智山派月見山と号し、本尊は将軍毘沙門天。当地には、もと真言宗五台山竹林ちくりん(現高知市)末の常楽じようらく寺があった。同寺は神亀元年(七二四)行基の開創といい(香美郡町村誌)、承久の乱後、土佐国幡多はたに配流となった土御門上皇はのち阿波国に移るが(「吾妻鏡」貞応二年五月二七日条)、その途次、一時期ここを御所としたという。上皇は月見山で常に観月したといい、月見山の名もその故事にちなむと伝える(南路志)。山上に上皇仙蹟碑がある。また「かがみのやたが偽のなのみしてこふる都のかげもうつらず」(土御門院御集)の歌は常楽寺滞在中の作といわれる。


宝幢院
ほうどういん

[現在地名]玉造町乙

加茂かもにある。天台宗、笠掛山神宮寺と号し、本尊は十一面観音。寺伝では延暦年中(七八二―八〇六)最仙の創建。初め神宮寺と称して大宮おおみや神社の側にあったが、観応二年(一三五一)比叡山の宝幢院主が下向し、荒廃した寺を再興したことから、宝幢院と称するようになったといい、開基帳(彰考館蔵)には「除高三拾五石八合、当寺ハ東範僧正従山門当国へ下向有之、観応二年辛卯開基当卯迄三百拾三年罷成候、百姓旦那弐百人、末寺弐ケ寺、門徒三ケ寺」と記される。


宝幢院
ほうどういん

[現在地名]マキノ町海津

摩尼山宝幢院薬師寺と称し、真言宗智山派。本尊薬師如来。もと仏地院と称し、慶長七年(一六〇二)現在の号に改めた。嘉吉二年(一四四二)紀州根来ねごろ(現和歌山県岩出町)の真遍の開基という。天正一〇年(一五八二)織田信長を殺した明智光秀に呼応しようとした旧若狭国主武田元次は、丹羽長秀により当院に招かれ、殺された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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