1885年に創刊され,1904年まで続いた日本初の本格的女性誌。とくに明治20年代のオピニオン・ジャーナリズムの一翼を担ったことで知られる。初代編集人の近藤賢三は,1884年に《女学新誌》を創刊したが,婦人論が活発になった風潮をみてそれを1年で廃刊し,新たに《女学雑誌》を創刊した。近藤は86年に死亡したが,第30号から巌本善治が主宰し,第524号からは青柳猛(有美)が引き継いだが第526号で廃刊した。雑誌の内容としては,文明開化の時代にふさわしい女性の地位の向上を訴える啓蒙的な論文が中心となっていた。とくに巌本が編集人となってからはその傾向が著しく,女性の地位向上,婚姻制度の改良,廃娼,矯風などについて,社会改良的な論を展開した。中島(岸田)俊子,田辺竜子らの女性執筆者を育てたこと,北村透谷,島崎藤村らの雑誌《文学界》の母体となったことなど,その後の文学,思想,ジャーナリズムにも影響を及ぼした。
執筆者:井上 輝子
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女性啓蒙(けいもう)雑誌。1885年(明治18)7月~1904年(明治37)2月。計548冊。10号まで万春堂、以後女学雑誌社発行。巌本善治(いわもとよしはる)を中心に『女学新誌』から分かれて創刊された。編集人は近藤賢三から善治を経て青柳猛(あおやぎたけし)。発行回数は初め月2回、ついで3回、さらに週刊、隔週刊、月刊へ。女性の啓蒙・向上を目ざし、キリスト教を基盤とする婦人矯風会設立や廃娼(はいしょう)運動、一夫一婦制建白運動など、わが国初期婦人解放運動に重要な役割を果たした。石橋忍月(にんげつ)、北村透谷(とうこく)らを評壇に送ったほか、若松賤子(しずこ)の『小公子』翻訳も注目される。ほかに木村熊二(くまじ)、中島湘煙(しょうえん)、田辺(三宅(みやけ))花圃(かほ)、清水紫琴(しきん)、磯貝雲峰(いそがいうんぽう)、星野天知(てんち)、島崎藤村(とうそん)らが執筆した。1892年、対象読者層によって甲の巻と乙の巻に分けられ、甲の巻はのち『評論』と改題。派生誌『女学生』『女学雑誌文学界』などが出された。復刻版(1966~67・臨川書店)がある。
[橋詰静子]
『『明治文学全集32 女学雑誌・文学界集』(1973・筑摩書房)』
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日本初の本格的な女性雑誌。1885年(明治18)創刊。最初の1年は近藤賢三,翌年から巌本善治(いわもとよしはる)が編集。欧化主義の時代風潮を背景に,女性の意識向上,女子教育・女権・結婚や家庭を中心テーマにして欧米の理論や現実・運動なども紹介。巌本は岸田俊子・若松賤子(しずこ)ら女性たちに論文発表の機会を与えるとともに,みずから男女同権や女学,公娼廃止について論じた。1904年2月日露戦争直前の時代的変化のなかで第526号で廃刊。
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…兵庫県出身で,1883年受洗。86年から《女学雑誌》を主宰,誌上で形式的な西欧模倣を批判しながらも男女同等を説き続け,それを阻む芸娼妓の公許,婦人の無教養,向上心の欠如,男性中心の婚姻制度,婦人職業の未発達などの解消を主張し,婦人の団体活動を勧奨した。同誌は北村透谷,島崎藤村らの《文学界》創刊(1893)の契機を用意するなど,明治文学史上でも注目される。…
…第1は,知識層をおもな読者とする女性評論誌の系譜である。日本で最初の本格的な女性雑誌は1885年創刊の《女学雑誌》である。《女学雑誌》は,キリスト教思想を背景に,女権伸張,女子教育の普及,近代家族制度の移植などを主張する啓蒙雑誌として出発し,明治20年代のオピニオン・ジャーナリズムの一翼をになった。…
※「女学雑誌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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