デジタル大辞泉
「石橋忍月」の意味・読み・例文・類語
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石橋 忍月
イシバシ ニンゲツ
明治・大正期の文芸評論家,小説家,弁護士
- 生年
- 慶応1年9月1日(1865年)
- 没年
- 大正15(1926)年2月1日
- 出生地
- 筑後国上妻郡湯辺田村(福岡県)
- 本名
- 石橋 友吉
- 別名
- 別号=福洲学人,筑水漁夫,懐郷生,嵐山人,萩の門,気取半之丞
- 学歴〔年〕
- 帝大法科大学(現・東大)独法科〔明治24年〕卒
- 経歴
- 学生時代からドイツ文学に親しみ、明治20年から21年にかけて坪内逍遙、二葉亭四迷を論じ評論家として注目される。また21年には小説「都鳥」を、22年「夏木立」を発表し、以後作家、評論家として活躍。評論家としては森鷗外の初期小説を批判し、“舞姫論争”“幽玄論争”を展開した。24年東京帝大を卒業し内務省に入るが、翌25年に辞職し、以後北国新聞を経て弁護士となり、長崎地裁判事にもなる。また長崎市議会、県議会の議員もつとめた。また一方では、尾崎紅葉と知己だった頃から俳句を始め、長崎の碧梧桐門下の田中田士英らと“あざみ会”を興す。「太白」誌を創刊、郷土に月並俳句一掃の新風を送る。漢学の素養から蕪村調をよくした。著書に「石橋忍月評論集」、「忍月全集」(全4巻 八木書房)がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
石橋忍月 (いしばしにんげつ)
生没年:1865-1926(慶応1-昭和1)
明治期の文芸評論家,小説家。筑後国(現,福岡県)生れ。本名友吉。別号福洲学人など多数。東大独法科卒。東大在学中に発表した〈妹(いも)と背鏡(せかがみ)を読む〉〈浮雲の褒貶(ほうへん)〉(以上1887)で文芸評論家として認められ,以後多くの作品を批評して文芸時評の基礎を作った。森鷗外と論争になった〈《舞姫》論〉(1890)はとくに有名である。彼の批評はアリストテレスやレッシングの理論を借りた裁断的な傾向が強いが,批評に客観的基準を作ろうとした点に功績がある。その基本的理論は〈想実論〉(1890)に示されている。彼の全盛期は1891年ごろまでで,93年に金沢の北国新聞社に入社してからはしだいに第一線を退いた。文芸評論家山本健吉(1907-88)は三男である。
執筆者:十川 信介
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石橋忍月
いしばしにんげつ
(1865―1926)
小説家、文芸評論家。筑後(ちくご)(福岡県)豊岡村に生まれる。本名友吉。1887年(明治20)帝国大学法科に入学、独法を学んだが、早くよりドイツ文学に親しみ、レッシングなどを批評の基準として、明治20年代前半の文壇に文芸評論家として活躍する。とくに『舞姫』評価をめぐっての森鴎外(おうがい)との論争は、日本近代文学史上初の本格的な文学論争として有名。また『想実論』(1890)など、文学の本質を考察した評論もあるが、一方『お八重』(1889)や『惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)』(1894)などの小説も発表している。帝大卒業後、内務省に入り、のち石川県金沢に移住、弁護士を開業、しだいに文学から離れた。99年(明治32)長崎に移住、同地で判事、弁護士、県会議員などを務めた。三男が文芸評論家の山本健吉である。
[大屋幸世]
『『明治文学全集 23 石橋忍月他集』(1971・筑摩書房)』
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石橋忍月
いしばしにんげつ
[生]慶応1(1865).9.1. 筑後,湯辺田
[没]1926.2.1. 長崎
文芸評論家,小説家。本名,友吉。東京大学独法科卒業。内務省の役人,地裁判事,弁護士,県会議員など多彩な職を歴任した。文芸評論にたずさわったのは東大予備門 (のちの第一高等学校) に在学中からで,レッシング,シラー,ゲーテらについての造詣を駆使して,『女学雑誌』『江湖新聞』などを舞台に活躍した。小説にも手を染め,『捨小舟』 (1888) ,『花盗人』 (96) などの作がある。また森鴎外との『舞姫』や『文づかひ』をめぐる執拗な論争も有名だが,文学者としての命脈は明治 30年代に入ってまもなく尽きた。文芸評論家山本健吉 (本名,石橋貞吉) の父。
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石橋忍月【いしばしにんげつ】
明治期の文芸評論家,弁護士。本名友吉。別号,福洲学人,筑水漁夫など。筑後生れ。東大独法卒。在学中から評論の筆をとり,《浮雲》評などで認められ,森鴎外と論争したこともある。時評的文芸評論の創始者といってよい。1897年東京で弁護士開業,1899年長崎地方裁判所判事,その後同地で弁護士業を営む。子の山本健吉〔1907-1988〕編《石橋忍月評論集》がある。
→関連項目新小説
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石橋忍月
没年:昭和1.2.1(1926)
生年:慶応1.9.1(1865.10.20)
明治大正期の評論家,小説家。本名友吉,別号気取半之丞など。筑後国(福岡県)上妻郡の生まれ。帝大独法科卒業。大学予備門(一高)時代から批評の筆を執り,『妹と背鏡を読む』『浮雲の褒貶』(ともに1887年)で坪内逍遥や二葉亭四迷の作品を論評。アリストテレスやレッシングを援用しつつ,具体的緻密な批評をみせ,作者の「精神」を問題にした。さらに『国民之友』などで論陣を張り,森鴎外の初期小説を批判,「舞姫論争」「幽玄論争」を引き起こした。小説に『惟任日向守』(1895)などもあるが,後半生は弁護士として活躍するにとどまった。3男は評論家山本健吉。著書に『石橋忍月評論集』などがある。
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石橋忍月 いしばし-にんげつ
1865-1926 明治時代の文芸評論家,小説家。
慶応元年9月1日生まれ。山本健吉の父。東京大学予備門在学中からドイツ文学の知識をもとに坪内逍遥(しょうよう),二葉亭四迷らの作品を論評。明治23年から森鴎外(おうがい)の「舞姫」「うたかたの記」をめぐり鴎外と論争。「惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)」などの小説もかいた。のち弁護士となり,判事もつとめた。大正15年2月1日死去。62歳。筑後(ちくご)(福岡県)出身。帝国大学卒。本名は友吉。別号に気取半之丞。
【格言など】美人如何程(いかほど)窈窕(ようちょう)なるも,情無ければ木偶(でく)なり。雛人形なり(「妹と背鏡を読む」)
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石橋 忍月 (いしばし にんげつ)
生年月日:1865年9月1日
明治時代;大正時代の文芸評論家;小説家
1926年没
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