評論家。本名は弥吉,愛山は号。幕臣の子として江戸に生まれ,明治維新後静岡に移り,生の転換を求めて1886年キリスト教に入信し,東洋英和学校に学ぶ。91年メソディスト三教派の機関紙《護教》を創刊し,その主筆(1891-97)になる。92年民友社に入り,《国民之友》《国民新聞》に執筆し,99年《信濃毎日新聞》の主筆をし,1903-16年に月刊《独立評論》を刊行。そのころ海老名弾正の自由主義に一時共鳴。1905年斯波貞吉,中村太八郎らと国家社会党(-1910)を結成し,家族国家論を基礎とした社会改良を唱え,06年普選運動や東京市電車賃値上げ反対運動を推進した。《現代日本教会史論》(1906),未完の《日本人民史》(1913)ほか,史論が多い。
執筆者:土肥 昭夫 貧しい生活の中で《西国立志編》に感銘を受け,早くから独学自活の道を歩んだ愛山の文筆家としての活動は,徳富蘇峰の勧めで入った民友社時代から本格化した。入社の翌年(1893)には,北村透谷との間の有名な〈人生相渉(そうしよう)論争〉が開始されている。これは,愛山が《頼襄を論ず》(《国民之友》)で,〈文章即ち事業なり。……人生に相渉らずんば是も亦空の空なるのみ〉と述べて,美辞に流れ世に益することのない文学を批判したのに対し,透谷が《人生に相渉るとは何の謂(いい)ぞ》(《文学界》)をもって応じたもの。この論争の過程で,文学の社会性や思想性を強調する愛山と,それらに還元できない独自な価値を文学に見いだそうとする透谷の立場が明らかになった。続く《信濃毎日》時代には,愛山は,社会の官僚制化の進行とロシアの進出に対する批判・警戒を主調とする論陣を張り,主筆を辞して後は,極東情勢の緊迫化の中で〈帝国主義〉を唱えてロシアとの対決を説く一方,国内の財閥の台頭に抗すべく〈国家社会主義〉を提唱した。晩年は引き続き多数の時事論文を記すかたわら,日本民族の政治的能力を確認するため日本人種論の研究に進んだ。このような愛山の活動を支えていたのは,旧幕の子弟としての反骨の姿勢と,《西国立志編》に由来する独立自助の精神,さらに逆境を克服して人間的向上を図る〈英雄〉の観念であった。愛山は活力と流動性に富んだ明治初期の社会状況を理想とし,みずからの立場を〈平民主義〉と称したが,そこには,硬直化しつつある明治後期の社会の再活性化と,その現実の担い手たるべき地方の青年たちの奮起を期待する念がこめられていたのである。
執筆者:坂本 多加雄
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明治期の史論家,批評家,ジャーナリスト
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(小宮一夫)
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明治時代の史論家、政論家。本名は弥吉。微禄(びろく)の幕臣の子として、元治(げんじ)元年12月26日江戸に生まれる。幕府滅亡後静岡に移り、静岡英語学校、東洋英和学校に学ぶ。一時牧師を務めたが、1892年(明治25)には『国民新聞』記者となり、同紙や雑誌『国民之友』に史論、評論を発表し、また北村透谷(とうこく)や高山樗牛(ちょぎゅう)と論争した。99年『信濃(しなの)毎日新聞』主筆、1903年(明治36)には『独立評論』を創刊。05年には斯波貞吉(しばていきち)、中村太八郎(たはちろう)らと国家社会党を結成し、のち普通選挙期成同盟会評議員となるなど、社会運動にもかかわった。反骨精神をもち在野の人として通したが、その思想は儒教とキリスト教に発し、ナショナリズムに移り、社会主義にも理解を示し、独自の国家社会主義思想に到達した。『社会主義管見』『現代金権史』『足利尊氏(あしかがたかうじ)』『現代日本教会史論』などの著作のほか多数の論説がある。大正6年3月15日没。
[松永昌三]
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1864.12.26~1917.3.15
明治期の史論家・評論家。本名弥吉。江戸生れ。東洋英和学校で学び,キリスト教に入信。「護教」の主筆をへて「国民之友」「国民新聞」記者。経世論的実学を基礎とする明快な史論を展開した。北村透谷との人生相渉(そうしょう)論争は有名。その後「信濃毎日新聞」の主筆,「独立評論」「国民雑誌」の創刊など,ジャーナリストとして活躍。思想的には国家社会主義の立場をとる。著書は「頼襄(らいじょう)を論ず」「明治文学史」「日本英雄伝」など50冊に及ぶ。
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…社会政策,保護主義,専売や国有化を重視する国家社会主義はドイツの歴史的条件のなかから形成された。 日本において国家社会主義を唱えた代表的思想家としては山路愛山,高畠素之,北一輝がいる。共通する特色として,(1)国体の尊重,(2)国家=搾取機関説を廃した国家=統制機関説,(3)階級闘争と民族闘争の結合,(4)反議会主義があげられよう(ただし愛山には(4)の主張は稀薄である)。…
…1880年代に一時,帝政党の機関紙となったが,86年ごろ脱却,90年株式会社に組織を変更,小坂善之助が実権を握り不偏不党を宣言した。99年,山路愛山を主筆に迎え,このとき〈社長といえども編集に容喙(ようかい)せず〉の方針を明らかにし,以後編集の独立が社風として確立された。1922年夕刊発行を開始。…
…それゆえ,たとえば,三井,三菱といった〈政商〉が人格的表現に重点をおく考え方だとすれば,むしろその〈前期的な商業資本〉の運動形態に着目して〈政商資本〉と表現・記述される場合もある。 さて,山路愛山が〈最初の明治政府,ことにその中心の人格たる岩倉,大久保諸公が国家自ら主動の位置を取りて民業に干渉し,人民の進まぬ前に国家先ず進み,世話焼と鞭撻と,奨励と保護とを以て一日も早く,日本国を西洋の様に致したしと……しきりに人民の尻をたたき立てり。さてかように政府が自ら干渉して民業の発達を計るに連れておのずからできたる人民の一階級あり。…
…山路愛山が発刊した個人雑誌。1903年1月創刊の月刊誌で16年8月まで刊行(その間1910年9月~13年1月までは愛山が《国民雑誌》主宰となったため休刊)。…
…1893年《文学界》第5号に発表。この論文は,山路愛山との間で激しく交わされた〈人生相渉論争〉を踏まえ,あらためて自分の思想的な立場を原理的に明らかにするために書かれた。そこで透谷が中心に置いたのは,もともとキリスト教からきている〈生命〉の概念である。…
※「山路愛山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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