宇佐村
うさむら
[現在地名]宇佐市南宇佐・北宇佐
現在の宇佐市域の中央東部に位置する。北の宇佐台地と南の宇佐丘陵の間を流れる寄藻川が形成した谷底平野、宇佐小盆地(宇佐盆地)とよばれる平地と周辺の台地を村域とする。寄藻川右岸の南宇佐には全国八幡宮社の総本宮である宇佐神宮がある。寄藻川は宇佐神宮境内の呉橋から神橋までの間を月ノ瀬川、神橋より下流を浅瀬川とも称した。東は和木村、西は上田村・法鏡寺村、南は矢部村・小向野村、北は高森村。正保三年(一六四六)に盆地を中心とした南半部が宇佐神宮領一千石の朱印地として確定、以後、神領は南宇佐村、北半の台地部は北宇佐村と二村に分立したが、郷村帳類では宇佐村一村で高付されることも多かった。なお神領南宇佐村に対して北宇佐村は俗に武領とよばれた。当村の台地上には笹原・老ノ上・二ッ塚・汐見塚・凶首塚など多くの古墳がある。
「元暦文治記」によれば、元暦元年(一一八四)緒方惟栄らが宇佐宮に乱入した折、大宮司宇佐公通の子板井(城井)兵衛尉種遠が「姨田村狐坂」に城郭を構えたという。この姨田村は現在の北宇佐字小畑と思われる。永仁五年(一二九七)九月日の宇佐保景申状(永弘文書)で、徳政により宇佐保景が返付を求めた「向野郷内河島」の畠地二段の買主は「姨田鍛冶細工」であった。同所は保景祖父保重が沽却していた。正平二五年(一三七〇)二月二七日の小山田社免石丸名坪付注進状(小山田文書)には「加宇前・小山田・大和・笛フキ・ハイノホリ・サクラ」などの字名がみえ、それぞれ現北宇佐の字閤ノ前・小山田・大和・笛吹・這登・桜とみられる。小山田閤ノ前とは向野郷司小山田氏の居館前ということであろうか。現北宇佐字光隆寺の辺りはかつて岡林村(岳林とも)と称したといわれる。永禄元年(一五五八)九月二一日の宇佐宮寺遷宮覚書(宮成文書)によると、大永三年(一五二三)三月二日、「丘林村太郎左衛門小家」からの出火で宇佐宮・弥勒寺の多くの堂宇が類焼している。
宇佐村
うさむら
[現在地名]土佐市宇佐町宇佐
浦ノ内湾入口の湾曲した海浜に面し、郷分・浦分に分れる。浜堤上に家屋が密集して街区をなす。東は新居村、北は津賀地村、西は浦ノ内村(現須崎市)・渭浜村・福島村。背後を山が囲むため、近代に至るまで新居村へは新居坂(宇佐坂)または池ノ浦坂、津賀地村へは塚地坂(宇佐坂)を経由しなければならなかった。現在は海岸沿いに県道が通じるほか、近年宇佐大橋・横浪黒潮ラインが開通し観光地横浪半島と直結した。
古代は「和名抄」所載の高岡郡海部郷に属したとされる。地名は元弘三年(一三三三)三月一三日付熊野御師の旦那注文(熊野那智大社文書)に「うさの大夫さへもんとの」とみえるのが早い例である。室町―戦国期にかけ高岡庄の外港として発展、永禄一三年(一五七〇)九月吉日付で一条康政が交付した給知状(蠧簡集)に、「宇佐清永名の内、田畠壱町五反の分仰付らるべく候もの也」とある。本山氏に代わって再度この地を奪回した一条氏も、この頃を最後に支配権を失った。
当地域の長宗我部地検帳(天正一七年)は表紙に「宇佐郷地検帳」とあり、宇佐郷のなかにはのちの福島村・渭浜村、さらには浦ノ内湾対岸の井尻村・竜村までをも含んでおり、郷内の村名として鍋戸村・ウツカ谷村・井尻村・竜ノ村・宇佐村・小磯村がみえる。総検地面積六六町四反余、うち宇佐村分は五六町一反余。のちの渭浜村・福島村の部分は空白に近い。宇佐村の北方山麓に沿って農耕地帯が続き、萩谷の前方には上田が集中する。名請は「名」が多く、次いで寺領の「分」、給地は一割に満たない。橋田付近に片岡氏の所領「片岡殿分」が集中している。前方の砂洲上には「北ノ町」「南ノ町」二筋の町並が形成され、五六筆の居屋敷が並ぶ。その東端に六角堂、中ほどに広さ一反余の「政所ヤシキ」もみえる。ほかに西浜一帯に二〇筆の水主屋敷、三筆の舟番匠屋敷などの集中や岩崎・新在家付近にある五筆の塩屋の居屋敷などが注目される。
宇佐村
うさむら
[現在地名]錦町大字宇佐
玖珂郡北端部に位置し、東を安芸国佐伯郡(現広島県)、北は石見国鹿足郡(現島根県)に接する。四方を寂地山・傍示ヶ峠・万象ヶ原・鬼ヶ城山・小五郎山など標高一〇〇〇メートル以上の山に囲まれた山村である。
村名は「大永ノ記録」(「山代温故録」所収)に「宇佐郷」とあり、その属村として「付大原・宇佐郷」と記される。すなわち中世期の宇佐郷は、近世の大原村・宇佐郷村を含む地域であったと思われる。
宇佐村
うさむら
[現在地名]岐阜市宇佐一―四丁目・宇佐南一―四丁目・六条南二丁目・六条大溝四丁目・菊地町・坂井町
鳥屋村の南に位置する平坦地で、東は六条村・清村、南境は荒田川。永正一六年(一五一九)七月日の大蔵飛雲寄進状(立政寺文書)に「うさ杉本」とみえ、小作の又大郎・孫大郎の名が記される。正保郷帳までは本庄村に含まれたとみられるが、慶長郷帳に宇佐村として高五六七石余が記されており、これについて詳しくは不明である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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