船大工町(読み)ふなだいくまち

日本歴史地名大系 「船大工町」の解説

船大工町
ふなだいくまち

[現在地名]長崎市船大工町・籠町かごまち本石灰町もとしつくいまち

本石灰町の西にある長崎そと町の一ヵ町で、船手に属した。西部を玉帯たまおび川が流れる。町並はほぼ東西に形成され、南は寄合よりあい町に接し、北の浦内に新地がみえる。船大工の集住によって船大工町が起立、元和八年(一六二二)長崎ロザリオ組中連判書付に「舟大工町funatçu machi」のNaito Juanが署名、ドミニコ会宣教師に組織された信徒がいた。これに後れて新たに船大工町が成立したため本船大工もとふなだいく町・新船大工しんふなだいく町の両町となった。寛永長崎港図に「新船大工町」と記される。寛永一九年(一六四二、同一六年とも)当時は町の南に丸山まるやま町・寄合町が成立するに伴いその門前町のような性格を帯びたとされ、この遊廓に通う客が渡る橋は思切おもいきり橋とよばれた。


船大工町
ふなだいくまち

[現在地名]宇和島市御幸町みゆきまち二丁目・恵美須町えびすまち二丁目・鶴島つるしま

もと千石浜せんごくはまと称し、江戸初期には新町しんまちとよばれた地域に属した。元禄一六年(一七〇三)七月の城下町絵図によると、西方は海、北は須賀すが川、東は御旗おはた(御足軽町)に接し、東北部には水田が広がる片側町であった。

海岸に造船所があり、船大工が居住したので船大工町という。


船大工町
ふなだいくまち

[現在地名]北区西天満にしてんま二丁目・同四丁目

拾壱丁目下半じゆういつちようめしもはん町の北町筋の西にあり、東西に延びる両側町。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図に舟大工町とみえる。大坂三郷天満組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数三九・役数四四役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。年寄は堺屋善左衛門。当町には船大工が集まっており町名はこれによる。元禄元年堂島どうじま新地開発で船小屋が機能しなくなり、堂島西端に代地を与えられ移転した船大工が多かった。


船大工町
ふなだいくちよう

[現在地名]兵庫区船大工町・中之島なかのしま二丁目

兵庫津中央部にある船溜の入江の口から南に延びる町で(元禄九年「兵庫津絵図」井家蔵)、天和元年(一六八一)の兵庫津検地帳(兵庫岡方文書)に町名がみえる。南浜に属し、寛政八年(一七九六)の兵庫津各町家数人数書上(安田家文書)の家数九四・人数三八二。


船大工町
ふなだいくまち

[現在地名]八代市ほん町四丁目・八幡はちまん

城の南西まえ川塘の内にあり、北は加子かこ町、東に御船蔵や材木置場がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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