川合郷
かわいごう
「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「加波比」と読む。貞観八年(八六六)八月三日付伊賀国阿閇福子施入状(東南院文書)に「伊賀国阿閇郡川合郷」がみえる。保安四年(一一二三)九月一二日の明法博士勘状案(東大寺文書)中の寺家所進証文等によれば、昌泰二年(八九九)には「玉滝庄」「内保庄」が、天禄二年(九七一)五月二二日の伊賀国阿拝郡司解案(東南院文書)には「湯船庄」がみえる。
川合郷
かわあいごう
「和名抄」所載の郷。記載順は八田郷に次ぎ、東急本の訓は「加波安比」。同名の郷でも、越前国足羽郡川合郷の訓は「加波比」(東急本)、甲斐国八代郡川合郷の場合は「加波井」(東急本)とするのに比べて特徴的である。「郷荘考」は、「三州志」が石黒郷の川合田村(現福光町)に比定するのに対し、川合田村を川上十郷の一部とみなして否定し、かつて庄川が西へ流れ小矢部川に合流した野尻村(現福野町)付近を川合郷にあてる。
川合郷
かわあいごう
「和名抄」所載の郷。訓はないが、礪波郡の同名郷には、東急本に「加波安比」の訓がある。川合郷はその字義から河川の合流地域に相当するとみられるが、「郷荘考」では、井田川と神通川の落合う有沢村(近世の宮川郷、現富山市)付近にあて、「大日本地名辞書」も同様に近世の宮川郷(神明村・鵜坂村辺り)に比定している。同地は「延喜式」神名帳婦負郡項にみえる鵜坂神社の立地する点でも注目される。ただし、婦負郡内の井田川筋には、山田川の合流する現婦中町富川・羽根辺りなども同様の条件をもっており、当郷の特定には依然として困難な要素が伴なっている。当郷に関しては、奈良市西隆寺跡から出土した木簡に、「(表)越中国婦負郡川合郷戸主□□」「(裏)□日浪米五斗天平神護三年」との墨書銘が知られる。
川合郷
かわいごう
「和名抄」東急本は「加波井」と訓を付し、高山寺本は訓を欠く。巨麻郡にも同名の郷がある。遺称とみなせる地名は残っていないが、二つの川の合流点を意味する地名語源から種々の比定が試みられてきた。富士川を挟んで東岸の現西八代郡六郷町以南を八代郡川合郷、西岸の南巨摩郡鰍沢町以南を巨麻郡川合郷に比定するのが「甲斐国志」以来の通説で、それぞれ近世の東河内領・西河内領の村々に対応する。
川合郷
かわいごう
「和名抄」所載の郷。「播磨国風土記」に川合里がみえる。里名は端鹿川と鴨川の合流点であることによるという。すなわち東条川と万願寺川がそれぞれ加古川に合流している地域をさし、現小野市北西部の河合中町・同西町が遺称地で、郷域は同市西部の粟生町から河合中町にかけての地域に比定するのが通説であった。しかし平城京跡出土木簡に、(一)「(表)賀茂郡川合郷坂本里」「(裏)佐伯部豊嶋白米一斗」、(二)「加毛郡川合里□」と記されたものがあり、(一)によると「坂本」の地を含むことから、郷域は通説よりも南西に延びた現加西市南西部の坂本町に及んでいたと考えられる。
川合郷
かわいごう
「和名抄」東急本は「加波比」と訓を付し、高山寺本は訓を欠く。八代郡にも同名の郷がある。遺称とみなせる地名はなく比定地には種々の説がある。「甲斐国志」は富士川を挟んで西岸の現南巨摩郡鰍沢町以南を巨麻郡川合郷、東岸の現西八代郡六郷町以南を八代郡川合郷に比定し、それぞれ近世の西河内領・東河内領の諸村に対応するとの見方を示しており、通説となってきた。
川合郷
かわいごう
「和名抄」に記載がない。郡郷里制下の天平七年(七三五)頃の平城京(二条大路大溝)跡出土木簡に「安房国長狭郡川合郷津城里葛
」とある。当郷の訓は諸国の加波井・「加波安井」から、カハヒあるいはカハアヒであろう。当郷名や里名の遺称と考えられる地名は確認されないが、郷名の由来を川合という表記から考えれば加茂川と金山川の合流する地点から、両者に挟まれた現鴨川市太尾から坂東・京田にかけての地域に想定することも可能である。
川合郷
かわいごう
「和名抄」所載の郷。高山寺本・名博本は川合、東急本・元和古活字本は川舎と記すが、諸本とも訓を欠く。現大田市川合町川合を遺称地とする。「出雲国風土記」神門郡条に「安農郡の川相郷」とみえる。「文徳実録」嘉祥三年(八五〇)八月一一日条によると、「安濃郡川合郷」に甘露が降っている。
川合郷
かわいごう
「和名抄」東急本は大野郡に置き、「加波比」と訓ずる。天平神護二年(七六六)一〇月二一日付越前国司解(東南院文書)に郷名がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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