日本歴史地名大系 「安積郡」の解説 安積郡あさかぐん 福島県:陸奥国安積郡阿尺とも書く。東は磐城郡・標葉(しねは)郡、北は信夫(しのぶ)郡、西は会津郡・耶麻郡、南は磐瀬(いわせ)郡・白河郡に接する中通り中央の地。阿武隈川が中央部を北流し、山道がこれに並行する。会津へのルートが四つあり、北から母成(ぼなり)・中山(なかやま)・御霊櫃(ごれいびつ)・三森(みもり)の峠がある。山は北から安達太良山(一六九九・六メートル)・大名倉(おおなぐら)山(五七五・六メートル)・額取(ひたいとり)山(一〇〇八・七メートル)・高旗(たかはた)山(九六八・一メートル)がある。成立当初の郡域は現在の郡山市・二本松市・田村郡・安達郡を含む。〔古代〕「和名抄」に「阿佐加」と訓を付す。「国造本紀」に阿尺国造とみえる。養老二年(七一八)五月二日、陸奥国の白河・石背(いわせ)・会津・安積・信夫五郡を割いて石背国に昇格するが(続日本紀)、一〇年足らずで陸奥国に復帰する。これが郡名の初見。延喜六年(九〇六)一月二〇日安積郡を分けて安達郡を置いた(延喜式)。さらに平安時代末期頃に阿武隈川以東を田村庄として分割する。田村庄の初見は「古今著聞集」である。安積郡衙は現郡山市清水台(しみずだい)の清水台遺跡に比定され、安達郡衙は現二本松市杉田の郡山台(すぎたのこおりやまだい)遺跡に比定される。虎丸長者が安積郡山から郡山台に移住したという伝説は、延喜六年の分郡の史実を伝えている。郡山台遺跡の発掘調査で一〇世紀初頭から一一世紀まで機能したことが判明した。田村郡衙跡の伝承がないのは、律令郡制が停止する一二世紀に入ってからの分割だからであろう。神護景雲三年(七六九)三月一三日「安積郡人外従七位下丈部直継足」に阿倍安積臣が賜姓されている。宝亀三年(七七二)七月一七日「安積郡人丈部継守等十三人」に阿倍安積臣を賜っている。延暦一〇年(七九一)九月五日「安積郡大領外正八位上阿倍安積臣継等」に軍粮進献の功により外従五位下を授けた(続日本紀)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by