ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
富士講
ふじこう
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富士山信仰の講社。富士山を遠く仰ぎ見て宗教的な感慨を抱くことは、古くからあったに違いないが、中世には修験道(しゅげんどう)を中心に、関東・東海地方に富士信仰が形成されていた。近世初期に長谷川角行(はせがわかくぎょう)が教義を整え、その布教のために信徒組織をつくった。富士山登拝と寄進がおもな目的である。その後、食行身禄(じきぎょうみろく)が講社の発展を図り、江戸を中心に町人や農民に広く呼びかけた。先達(せんだつ)が霊験(れいげん)を説いて信徒を集め、先達に引率されて富士山に登拝するものである。講中の者は登拝に先だって3日または7日の精進潔斎ののち、白衣を着て鈴と金剛杖(こんごうづえ)を持ち、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)お山は晴天」などと唱えながら、行者(ぎょうじゃ)として修行のために富士山に集団登拝する。実際に登山できない人のためには、村内に富士塚などの遙拝(ようはい)所を設けた。関東にはいまも、富士山をかたどった富士塚や、登拝記念の石塔が数多くあり、地名に残ったものが多い。江戸時代には江戸八百八講といわれるほどに栄え、教派は身禄派と光清(こうせい)派に分かれたが、身禄派が優勢になった。江戸時代の末には幕府の弾圧を受けた。明治以後は教派神道として再生し、扶桑(ふそう)教、実行教、丸山教、富士教の諸派に分かれた。1923年(大正12)の関東大震災以後、東京の講社は激減した。現代は個人で登る人もあり、女性も登るが、昔ながらの服装の人もある。
[井之口章次]
『岩科小一郎著『富士講の歴史――江戸庶民の山岳信仰』(1983・名著出版)』
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
…中世には女人禁制の観念が発達したので,道者は男性に限定され,浅間神社信仰は男性中心に続いてきた。江戸時代中期ころより富士講信者に女性が増え,富士講は御師の一部と結びついて広く信者を集めたので,女性登山者が,他の山岳に比して多くいることも知られている。このほか,長野県浅間山や三重県朝熊(あさま)山などの各地域社と結びついた浅間信仰もあり,富士浅間とは異なる歴史をもっている。…
… 《更級(さらしな)日記》には山頂に神々が集まり,人の運命を決した話があるが,中世以来,この山を崇敬する風が東日本に広まり,近世に盛行した。富士行者に引率される信者組織の富士講が各地に結成され,神霊を分祀(ぶんし)する浅間塚,富士塚がつくられた。その中心は富士山麓の大宮,村山,河口,吉田,須走の浅間(せんげん)神社で,それぞれに御師(おし)がおり,信者の富士登拝の先達をした。…
※「富士講」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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