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平田銕胤 ひらた かねたね

美術人名辞典の解説

平田銕胤

幕末・明治の国学者・秋田藩士。伊予生。初め碧川氏。名は篤実・篤真、通称は内蔵介、号は伊吹舎・大角。平田篤胤に師事し、養子となる。平田学の普及に尽力した。維新後、神o事務局判事・内国事務局判事・明治天皇侍講・大学大博士等を経て大教正となる。岩倉具視と交流があった。著書に「祝詞正訓」がある。明治13年(1880)歿、82才。

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デジタル大辞泉の解説

ひらた‐かねたね【平田銕胤】

[1799~1880]幕末・明治初期の国学者・神道家。伊予の人。旧名、碧川篤実。平田篤胤の門人で、のち養子。維新後、侍講・大教正などを歴任。養父の学を祖述、整理補修した。著「祝詞正訓」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

平田銕胤 ひらた-かねたね

1799-1880 江戸後期-明治時代の国学者。
寛政11年生まれ。平田篤胤(あつたね)に入門,その娘婿となる。篤胤没後は平田学派の維持につとめ,おおくの門人をあつめる。維新後は神祇(じんぎ)事務局判事,明治天皇侍講などをへて大教正となった。明治13年10月5日死去。82歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。本姓は碧川。初名は篤実。通称は内蔵介,大角。

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朝日日本歴史人物事典の解説

平田銕胤

没年:明治13.10.5(1880)
生年:寛政11(1799)
幕末・明治初期の国学者。名は初め篤実。通称は初め内蔵介,のち大角。新谷藩(愛媛県)藩士碧川氏の子。文政5(1822)年平田篤胤に入門。篤実にして勤勉なるをもって同7年篤胤の養子となり,その長女千枝と結婚。学問的業績にさしたるものはないが,義父篤胤のために出版資金の調達や著書販売などの実務を担当した。篤胤が幕府の忌諱に触れて秋田に移されてからは,1000名を超す門人をよく統率した。維新後は神祇事務局判事,内国事務局判事,明治天皇侍講,大学大博士などを経て,明治12(1879)年大教正(教導職の最高位)に任命された。

(白石良夫)

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世界大百科事典 第2版の解説

ひらたかねたね【平田銕胤】

1799‐1880(寛政11‐明治13)
江戸後期の国学者。伊予新谷藩碧川術門八の子。初め名は篤実,のち銕胤と改める。通称は内蔵介,のち大角。平田篤胤に学び,その養子となる。篤胤没後もその家学を祖述し維持した。明治維新後は参与神祇事務局判事,内国事務局判事,大学大博士を歴任。宗教,教育面で政府内平田派の総帥として重きをなした。明治天皇の侍講もつとめる。その門人をすべて篤胤没後の門人としたことは有名。著書に《毀誉相半書》など。【南 啓治】

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大辞林 第三版の解説

ひらたかねたね【平田銕胤】

1799~1880) 江戸末期・明治の国学者・神道家。旧名、碧川篤実。伊予の人。平田篤胤の養子となり、その遺教を継ぐ。維新後、大学大博士・大教正・侍講を歴任。主著「祝詞正訓」

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

平田銕胤
ひらたかねたね

[生]寛政11(1799).伊予
[没]1880.10.25.
幕末~明治の国学者,神道学者。鉄胤とも書く。伊予新谷藩士碧川某の子で初め篤真という。通称は内蔵介,のちに大角。平田篤胤門に入り,その娘婿となり,師の家学を受けて,忠実にこれを伝えた。明治維新後,神祇事務局判事,内国事務局判事を経て明治2 (1869) 年に明治天皇の侍講となり,のち大学大博士から大教正に補せられた。『毀誉相半書』 (34) の編纂がある。

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