実方院跡(読み)じつぽういんあと

日本歴史地名大系 「実方院跡」の解説

実方院跡
じつぽういんあと

[現在地名]那智勝浦町那智山

熊野那智大社表参道の石段を登った中腹の左手に跡地がある。米良実報院・実法院・十方院とも書き、高坊たかぼうともよばれ、那智山の御師として大きな勢力を有した。「続風土記」所引の寛文記は旧記を引いて「実報院は那智山七院の一にして田辺別当湛増の後なり、那智山の麓川関村に高き山あり、其地に居城す、故に又高坊といふ」と記す。熊野別当湛増の子孫と称する米良氏が実方院を代々相続し、高坊法眼とよばれた。一説には「太平記」巻一五にみえる熊野別当道有が新宮から那智に入り、のち実方院の開山となったともいう。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔中世〕

高坊は仁平元年(一一五一)二月一五日の源義国寄進状写(米良文書)に「美作国稲岡南庄熊野本山之御師職高坊範助法印御房所申付也」とみえるのが早いが、この文書は疑問ももたれている。なお「続風土記」はこの文書をもってこのとき実方院が源家の御師職となったとしている。暦応元年(一三三八)二月一五日の足利尊氏御内書写(同文書)に「熊野山師職事、於当家一門者、可為高坊法眼御坊」とみえ、前記美作国稲岡南いなおかみなみ荘内御師職名を高坊に領掌せしめている。これより室町将軍家代々から安堵される御師職となった。足利義満は嘉慶二年(一三八八)七月一六日に高坊法橋良救に、また応永八年(一四〇一)二月一一日には慈徳丸(良崇か)に御師職を安堵し(「足利義満御判御教書写」同文書)、同義持も同一六年九月一八日に稲岡南荘内御師職名を高坊良崇に安堵している(「足利義持御判御教書写」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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