市野々村(読み)いちののむら

日本歴史地名大系 「市野々村」の解説

市野々村
いちののむら

[現在地名]一関市萩荘はぎしよう

達古袋たつこだい村の南、ほぼ東流する市野々川沿いにある。南は栗原くりはら普賢堂ふげんどう(現宮城県栗原郡金成町)市野いちの村ともよばれる。古くは吾勝あがつ郷のうちで、当地の仏ヶ森ほとけがもりより採れた篦が源頼義から当国第一のののとほめられたことによると伝える(安永風土記)。また藤原氏の招きによって当地に来た運慶が自境じきよう(自鏡山、三四一メートル)の桂を使って多くの仏像を彫刻したので、当地の南半分を仏坂ほとけざか村と改めたとも伝える。「陸奥話記」によれば、康平五年(一〇六二)八月一六日営岡たむろがおか(現栗原郡栗駒町)を発した源頼義軍と清原武則軍は、「松山の道に赴きて、磐井の郡中山の大風沢に次りぬ」とあり、翌日萩の馬場はぎのばばに到着した。この中山なかやま大風沢おおかざわを当村に比定する説がある。

天正一〇年(一五八二)六月一日の葛西晴信知行宛行状(日形小野寺文書)に市野々村とみえ、三千刈が軍功の賞として小野寺前司に宛行われている。


市野々村
いちののむら

[現在地名]土佐市市野々

鷹巣たかのす村の南西、市野々川流域に位置し、「土佐州郡志」には「市之野村」として「在鷹野巣村西、四方皆山也」とみえる。「市野村」(南路志)とも記す。戸波へわ郷に属したが天正一七年(一五八九)の戸波郷地検帳には村名はみえず、清光きよみつ村のホノギに「一ノ野」が認められる。清光村・名越なごえ村・熊川口くまのかわぐち村・仏蔵ぶつぞう村などを合せて近世の市野々村となったと考えられる。元禄地払帳では総地高三九〇石余、うち本田高三三七石余・新田高五三石余。


市野々村
いちののむら

[現在地名]尾花沢市市野々

関谷せきや村の北、丹生にゆう川支流赤井あかい川の上流域に位置し、北東は岩谷沢いわやざわ村。山刀伐なたぎり峠に至る街道に沿って発達した。元和八年(一六二二)山形藩領、寛永一三年(一六三六)幕府領となり、安政二年(一八五五)より松前藩預地。正保郷帳では田方二八五石余・畑方二九石余。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内覚帳(二藤部文書)によると高二六二石余、家数四四・人数一七七、馬一四。御林二(遠とう沢山・とうの沢山)、川除け一、橋一。


市野々村
いちののむら

[現在地名]永平寺町市野々・荒谷あらたに志比しひ

永平寺川流域の谷間に位置し、村内を永平寺道が通り、北は京善きようぜん村、南は山を越えると足羽あすわ大谷おおたに(現美山町)に、また京善村境付近から西になし峠を越えると吉田郡印内猪谷いんないいだに(現松岡町)に至る。枝村として「重道・切谷・荒谷・三明」があった(越前地理指南)

慶長六年(一六〇一)九月九日付山川菊松宛結城秀康知行宛行状(山川家文書)に「志比領 市野村」とあり、同一一年頃の越前国絵図では志比下しひしも庄内に含まれていたと思われる。


市野々村
いちののむら

[現在地名]小国町市野々

綱木箱口つなぎはこのくち村の南、北流するよこ川流域に位置する。越後街道の宿駅で、さくら峠を越えて当村に入った同街道は横川沿いに北上し小国町村へ向かう。古くは西北の黒沢くろさわ峠を越えて黒沢村に通じる道が本道であった。中津川なかつがわ地区(現飯豊町)を経る同街道の脇道は、南接する叶水かのみず村から横川沿いに北上、当地で本街道と合流する。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録のうちとして「いちのゝ在家」とみえ、遠藤上野守に加恩として与えられた。


市野々村
いちののむら

[現在地名]金津町畝市野々うねいちのの

加越国境の山中、観音かんのん川の谷間に位置し、上流には宇根うね村、下流には牛之谷うしのや村がある。正保・元禄・天保の各郷帳や地誌類の多くは市野々の村名を用いるが、享保郷帳は宇根市野々村と記し、当村山口家の文政―天保(一八一八―四四)頃の文書には畝市野々と記している。明治五年(一八七二)以降は畝市野々に統一。「大乗院寺社雑事記」文明二年(一四七〇)七月一四日条に「河口庄郷々内村名」として細呂宜ほそろぎ郷に「宇弥一野村」とみえるが、当村一村をさしたものか、宇根村をも含めたものかは不詳。


市野々村
いちののむら

[現在地名]長南町市野々

佐坪さつぼ村の南に位置し、小生田おぶた川が流れる。大多喜おおたき往還が通り、難所のぼう坂には六面地蔵・道祖神・馬頭観音が祀られる。中世は一野村などとみえる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に市野々村とあり、高四四八石。正保国絵図では高四四〇石。元禄郷帳では高四六三石余。寛政五年(一七九三)の村明細帳(鈴木家文書)では田三一町八反余・畑二三町一反余で家数一三〇・人数六〇〇、川堰一・地頭林二、農間に筵・茣蓙を作っていた。地内の玉泉ぎよくせん寺領一五石余と旗本御手洗領四〇石余・神尾領四〇八石余の相給で、幕末も同様。


市野々村
いちののむら

[現在地名]藤岡町西市野々にしいちのの

現町域北西端に位置する。標高七〇一メートルの三国みくに山山麓にあって、村の中で最も高い地点は標高六五〇メートルある。西市野々村とも称する。慶応三年(一八六七)の村絵図(藤岡村誌)をみると、木瀬きせ川の支流助重川が村域南側を東西に横断し、集落はこの川の北側に多い。縄文時代の西屋敷にしやしき遺跡・曾根畑そねばた遺跡がある。


市野々村
いちののむら

[現在地名]那智勝浦町市野々

那智山の南東麓にあり、南東は井関いせき村。「続風土記」は「方十町那智川の北にあり、鳥居を堺として那智山下に村居す、古那智山盛にして参詣多かりし時市をなしたる地なるへし」と記し、小名として二瀬にのせがあった。古くは「一野」「市野」とも記した。「中右記」天仁二年(一一〇九)一〇月二七日条に「一野王子」の名がみえるのが早く、応永二八年(一四二一)五月二〇日付旦那売券(米良文書)に「一野の次郎女」、寛正四年(一四六三)五月三日付旦那売券(同文書)に「沽主市野ちやくし」とみえる。


市野々村
いちののむら

[現在地名]岬町市野々

岩熊いわくま村の北西に位置する。市野とも記した。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三二〇石。慶長五年(一六〇〇)大多喜藩領分高付帳(大木家文書)では高三三〇石余。正保国絵図でも同高。寛文四年(一六六四)には武蔵国岩槻藩領(寛文朱印留)。元禄郷帳では高三四〇石余で、幕末まで変わらない。享保四年(一七一九)には旗本岡部領(石野家文書)、同領で幕末に至る(旧高旧領取調帳)。元禄一一年(一六九八)の村明細帳(宍浦家文書)によれば、高三三〇石余(善福寺領が除かれている)、反別は上田四町一反余・中田四町二反余・下田九町三反余・新田二町余、中畑七反余・下畑三町二反余・屋敷畑七反余・下々畑一町五反余・新畑四町一反余。


市野々村
いちののむら

[現在地名]久美浜町字市野々

川上谷かわかみだに川の最上流が二つに分れ、東に市野々の谷を形成する。南に標高六九六・七メートルの高竜寺こうりゆうじヶ岳がそびえ、三方山に囲まれている。北西に川上谷が広がる。集落の中を福知山城下(現福知山市)に通じる街道が通じ、南の円城寺えんじようじ峠を越えると但馬国に至る。村内にカンナ流しの跡、タタラ跡があり、砂鉄の生産と製鉄を行っていたことを物語るが、時代は明らかでない。

慶長検地郷村帳に高一九八・四石「市野々村」とみえるが、延宝九年(一六八一)の延高で二八〇石余となった(天和元年宮津領村高帳)


市野々村
いちののむら

[現在地名]勝浦市市野郷いちのごう

佐野さの村の東に位置し、夷隅いすみ川の支流市野川が流れる。正保国絵図に市野々とみえ、高六二石。寛文四年(一六六四)の阿部正春領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、武蔵岩槻藩領。元禄郷帳では高七五石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳には市野村とあり、家数三一、旗本曲淵領。幕末も同氏領(旧高旧領取調帳)。明治一一年(一八七八)郷渡ごうと村を合併し、市野郷村となる。


市野々村
いちののむら

[現在地名]篠山市市野々

宮代みやしろ村の南東にあり、大芋おくも川が流れる。北部の八幡神社の裏手に土蜘蛛の伝説をもつ岩窟がある。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「市野々村」とみえ、高三四七石余。正保郷帳では田高三一五石余・畠高三二石。「丹波志」では大芋庄のうちで、高三六五石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では福井組で、家数四六・人数二六八。


市野々村
いちののむら

[現在地名]糸魚川市市野野いちのの

来海沢くるみざわ村の南西、南は御前山ごぜんやま村。口碑によると草分は、信濃国筑摩ちくま郡の野崎・松沢・斉藤の三氏と伝える。正保国絵図に高五三石余とある。天和三年郷帳では高五二石九斗余、うち山高四斗一升七合である。古く天正一六年(一五八八)以前から御前山村と山の境界を争い、天和三年(一六八三)にも争いが起き、市野々村の敗訴が決定したのは貞享三年(一六八六)である。


市野々村
いちののむら

[現在地名]今立町市野々

やなぎ村の南にあり、水間みずま谷の最奥に位置する。東は大坂を越え山田やまだ(現池田町)に通ずる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では水間村に含まれるが、元禄郷帳で分村、村高は一七七・九四三石。明治三年(一八七〇)の第二郷水間谷十ケ村小前持高書上帳(前田五平家文書)によると戸数は四六戸、持高の最高は一八石七斗九升で、一〇石以上二四戸、一石未満七戸。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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