尊勝院(読み)そんしよういん

日本歴史地名大系 「尊勝院」の解説

尊勝院
そんしよういん

[現在地名]那智勝浦町那智山

青岸渡せいがんと寺の下方石段左にある。那智山清僧執行職の僧坊。「続風土記」によれば、開創は仁徳天皇のとき権現を勧請して那智を開いたという裸行で、平頼盛の子孫牟婁むろ潮埼しおざき荘に居住し、潮崎氏となって尊勝院を代々管理、清僧一人を出して那智の執行職を勤めた。また滝執行(滝本執行)として那智大滝のもとにある飛滝ひろう権現(現飛滝神社)に奉仕し、滝衆(滝本聖)を統轄したと伝える。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔中世〕

承久元年(一二一九)一〇月一八日の長済譲状案(潮崎八百主文書)によれば、法橋長済が宝善房宝済に尊勝院房地と諸国の檀越を譲渡している。宝治元年(一二四七)一一月一一日の旦那譲状写(米良文書)によると、尊勝院の豪慶が先祖伝来の旦那である肥前・美作・日向・武蔵・越前五ヵ国を証道房に無償で譲渡している。また年未詳四月二日の尊勝院法橋御房宛の法印正湛書状(潮崎八百主文書)に「当年那智山参詣志候、可被懸御意候ハヽママ為御布施円鞘太刀一振被進候」とみえる。


尊勝院
そんしよういん

[現在地名]東山区粟田口粟田山北町

青蓮しようれん院の院家の一。天台宗。本尊慈恵大師(良源・元三大師)坐像。「山州名跡志」に「在金蔵寺東上壇地、属青蓮院」と記し、「都名所図会」は青蓮院の「南の丘にあり」とする。その場所がら裏築地門跡の称があり、また良源(天台座主)自作と称する坐像(三尺)を安置するので元三がんさん堂の通称で親しまれてきた。山門(比叡山延暦寺)尊勝院の別院で、保延二年(一一三六)陽範が鳥羽天皇のために比叡山横川よかわで尊勝法を修し、その賞として同地に尊勝坊(院)を賜ったのに始まる。


尊勝院
そんじよういん

[現在地名]古河市本町一丁目

ほん町一丁目と横山よこやま町一丁目の間の通り(近世の二丁目)に面して所在。明王山安楽あんらく寺と号し、真言宗豊山派。本尊不動明王。享保三年(一七一八)縁起によれば、創建は足利尊氏。尊氏は征夷大将軍になれた陰には父貞氏が信仰した不動明王の加護があったことを思い、鎌倉に円珍作の不動明王を安置したのが当寺の起りで、のち古河公方足利成氏に従って古河に来て、古河城の東北に位置して、その祈願所となったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の尊勝院の言及

【華厳宗】より

…奈良時代には東大寺,大安寺,薬師寺,西大寺などに華厳専攻の学僧が止住し研究に当たったが,政治社会の動向で衰退していった。819年(弘仁10)に道雄は山城国に海印寺を建て,955年(天暦9)に光智は東大寺に尊勝院を創建し,華厳宗の本所とし,宗の復興宣布に務めた。12世紀末には景雅,弁暁が出て,弁暁は当院の再興を図るとともに,その門下より明恵,さらに宗性,凝然などの学僧が輩出した。…

【東大寺】より

… 平安時代になると855年(斉衡2)5月の地震で大仏の頭部が墜落し,861年(貞観3)3月に修理完成して開眼供養が行われ,917年(延喜17)12月には僧坊,講堂が焼失し,講堂は935年(承平5)5月に再建,934年10月には西塔および回廊が雷火で焼けた。一方,821年(弘仁12)2月には灌頂道場として空海が真言院を創設したのをはじめ,聖宝による三論・真言兼学の東南院,光智による華厳・真言兼学の尊勝院や念仏院,良弁堂,知足院なども創建された。1180年(治承4)12月平重衡の兵火で奈良時代以降の諸堂,坊舎などはほとんど類焼し,重源(ちようげん),栄西,行勇など造東大寺大勧進上人によって復興が続けられた。…

【東南院】より

…南大門の東方に位置したため東南院と称したという。1071年(延久3)の宣旨により,院主は三論宗の長者を兼ね,元興(がんごう)寺,大安寺などの三論宗を吸収して三論宗の本所となり,華厳宗の尊勝院とともに公卿・法親王が入寺し,東大寺はもちろん南都仏教界に重きをなした。1088年(寛治2)白河上皇が高野山参詣の途次に宿泊して以降,しばしば天皇,上皇などの御所となり,南都御所とも称せられた。…

※「尊勝院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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