宮内町(読み)みやのうちまち

日本歴史地名大系 「宮内町」の解説

宮内町
みやのうちまち

[現在地名]敦賀市あけぼの町・もと町・栄新さかえしん

気比けひ神領三町の一。丁持ちよもち町の南方、気比神宮の東にあり、津内つない村の枝町。永禄元年(一五五八)六月五日付善妙寺領目録(同寺文書)、慶長三年(一五九八)七月の津内村検地帳(田保家文書)に「宮内」とみえる。実質的には郷村で、町方夫役は免除、また神領のため地子銀も藩へ納めず、肝煎も置かれない(指掌録)。寛文三年(一六六三)の敦賀四一町(寛文雑記)および天和二年(一六八二)の敦賀三六町(遠目鏡)のなかに数えられない。

宮内町
みやうちちよう

[現在地名]近江八幡市宮内町

八幡町の北部、鶴翼かくよく(八幡山)南麓に位置する。八幡堀の内側(北側)にあたり、東は比牟礼ひむれ社境内、八幡堀に架かる東からみやノ橋(白雲橋とも)本町ほんまち橋、幸円こうえん(清四郎橋とも)三橋で八幡各町と結ばれる。宮ノ内・宮村とも称した。八幡城下形成時には武家屋敷地であったと思われる。寛文五年(一六六五)幕府代官小堀仁右衛門政春によって宮ノ橋から幸円橋までの堀沿いの地が開墾され、土手畑どてばたけと名付けられた(年未詳「八幡町記録帳」近江八幡市共有文書)。延宝七年(一六七九)の検地時には土手畑の名請人として新町元しんまちもと町の忠右衛門(上畑二八歩・下田一畝余)、庄三郎(上畑一畝余・下田二九歩)、甚右衛門(上畑二畝余)の名がみえ(→新町、文政九年(一八二六)には畑以外に計四筆の水田もあった(梅原文書)

宮内町
みやうちちよう

[現在地名]兵庫区七宮町しちのみやちよう一―二丁目・本町ほんまち一丁目

宮前みやまえ町の北に接する北浜の町。天和元年(一六八一)の兵庫津検地帳(兵庫岡方文書)町名がみえ、寛政八年(一七九六)兵庫津各町家数人数書上(安田家文書)の家数七八・人数三一三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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