敦賀津内町(読み)つるがつないまち

日本歴史地名大系 「敦賀津内町」の解説

敦賀津内町
つるがつないまち

敦賀津(湊)を中心に中世以降形成された港町。現敦賀市域の中核をなす。

〔敦賀津〕

天平勝宝七年(七五五)九月の越前国雑物収納帳(正倉院文書)に「敦賀津」、「万葉集」巻三の笠金村の歌の詞書に「角鹿津」、「日本霊異記」中巻に「都魯鹿津」とみえる。日本海側のほぼ中央にある天然の良港で、背後は琵琶湖水運で京畿に連絡する交通上の要衝であった。「日本書紀」垂仁天皇二年一〇月条に、崇神天皇のとき任那の王子都怒我阿羅斯等が来着したとあることからも、古くから対外的な門戸でもあったことが知られる。大化前代には津守を置き津済の賦を調した(日本書紀、古事記)。また海人部がおり水産海運に従事した。「古事記」応神天皇の段に「角鹿の蟹」を歌った歌謡がみえ、「日本書紀」武烈天皇即位前紀に角鹿の塩は天皇の食するところとなったとみえる。先記「日本霊異記」には聖武天皇の時、奈良の人楢磐島が大安だいあん寺の修多羅分銭三〇貫を借りてこの津で商品を購入して帰るとあり、敦賀の商港の名声は中央にも高かったことが知られる。

平安遷都後、北の玄関口として敦賀津も発展し、北国諸国の官物はここに集中し、塩津しおつ(現滋賀県伊香郡西浅井町)から京へと輸送された(延喜式)。官物とともに荘園年貢なども入津し、これらの荷物には関税が課せられた。治暦元年(一〇六五)九月越中国の請によって、近江塩津・大津、同木津こうづ(現滋賀県高島郡新旭町)、若狭気山きやま(現三方郡三方町)とともに当津の津吏の勝載料の徴収を禁止した(同年同月一日付「太政官符写」壬生家文書)

鎌倉時代には当津通過の物資への通行税、桝米の徴収がなされた。乾元二年(一三〇三)には気比桝米の名目気比けひ神宮の所得としている(吉田家文書)。徳治二年(一三〇七)後宇多上皇は敦賀津桝米五ヵ年分を奈良西大さいだい寺四天王院・京都伏見醍醐だいご寺・京都祇園社三方修造料に、延慶二年(一三〇九)伏見上皇は叡山大講堂造営料に寄せている(西大寺文書)など、寺社の修造の資に充てられた。

六世紀後半から七世紀前半に高句麗使の渡来が、神亀四年(七二七)から渤海使が、越の国を表玄関として入貢した。また敦賀に松原まつばら客館を設け、さらに延暦二三年(八〇四)には能登客院を増設し渤海の客人を迎えた。渤海使は三五回の来朝のうち北陸へ一六回至り、高級毛皮や人参・蜜などをもたらした。客館は松原駅にあり、松原駅館とも称した(扶桑略記)。「延喜式」(雑式)では、この館は気比神宮司の検校するところであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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