日本歴史地名大系 「敦賀津内町」の解説
敦賀津内町
つるがつないまち
〔敦賀津〕
天平勝宝七年(七五五)九月の越前国雑物収納帳(正倉院文書)に「敦賀津」、「万葉集」巻三の笠金村の歌の詞書に「角鹿津」、「日本霊異記」中巻に「都魯鹿津」とみえる。日本海側のほぼ中央にある天然の良港で、背後は琵琶湖水運で京畿に連絡する交通上の要衝であった。「日本書紀」垂仁天皇二年一〇月条に、崇神天皇のとき任那の王子都怒我阿羅斯等が来着したとあることからも、古くから対外的な門戸でもあったことが知られる。大化前代には津守を置き津済の賦を調した(日本書紀、古事記)。また海人部がおり水産海運に従事した。「古事記」応神天皇の段に「角鹿の蟹」を歌った歌謡がみえ、「日本書紀」武烈天皇即位前紀に角鹿の塩は天皇の食するところとなったとみえる。先記「日本霊異記」には聖武天皇の時、奈良の人楢磐島が
平安遷都後、北の玄関口として敦賀津も発展し、北国諸国の官物はここに集中し、
鎌倉時代には当津通過の物資への通行税、桝米の徴収がなされた。乾元二年(一三〇三)には気比桝米の名目で
六世紀後半から七世紀前半に高句麗使の渡来が、神亀四年(七二七)から渤海使が、越の国を表玄関として入貢した。また敦賀に
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報