宮村(読み)みやむら

日本歴史地名大系 「宮村」の解説

宮村
みやむら

[現在地名]長井市大町おおまち新町しんまち十日町とおかまち一―二丁目・横町よこまち中道なかみち一―二丁目・幸町さいわいちよう清水町しみずちよう一―二丁目・高野町こうやちよう一―二丁目・本町もとまち一丁目・ままの上ままのうえ屋城町やしろまち舟場ふなば栄町さかえまち・宮

現長井市南東に位置し、市街中心部にあたる。東辺を北流する最上川と、北辺を北東流する川に画され、同川は村の北端で最上川に合流する。横町にある真言宗豊山派遍照へんじよう寺の門前町として古くから賑いをみせ、同寺の南方にあったという宮村館(正確な跡地については諸説ある)小桜こざくら館・卯花うのはな館ともいい、かつて安倍宗任の娘卯の花姫が居住したとも伝え、戦国期には伊達氏家臣片倉一族の居館であったという。近世には最上川舟運の河岸(宮舟場)が設けられ、また大塚おおつか小松こまつ(現東置賜郡川西町)から最上川左岸を北上し、そのまま鮎貝あゆかい(現西置賜郡白鷹町)へ向かう道、当地で右岸へ渡り荒砥あらと(現同上)へ向かう道などが通り、南接する小出こいで村とともに在郷町として下長井の商業の中心地の一であった。

仏説大灌頂神呪経(北野神社文書)巻三の明応九年(一五〇〇)一一月九日付の奥書に「出羽下長井宮住 宥尊」とみえ、同月一二日・一三日・一五日の日付をもつ巻七・巻八・巻一〇の奥書にも同様の署名がみえる。永正六年(一五〇九)八月、伊達尚宗は上杉定実・長尾為景加勢のために「宮村殿」らに出陣命令を下し、片倉右京・片倉八蔵らに軍勢を催促している(同年八月一一日「国分胤重軍勢催促廻文写」奥羽編年史料所収文書)。天文七年(一五三八)の段銭古帳には「三十くハん百文 ミや」とある。伊達氏天文の乱のさなかの天文一四年九月二一日伊達晴宗は宮、越手(小出)、火神台(勧進代)各一円を片倉伊賀九郎右衛門に与え、翌一〇月九日、三所の棟役・田銭・諸公事を五年間免除している。


宮村
みやむら

[現在地名]宮村 山下下やましたしも山下中やましたなか山下上やましたかみおく寺元てらもとてらみなみ渡瀬わたせ日影ひかげ洞上ほらかみ洞下ほらしも問坂上といさかかみ問坂下といさかしも宮元みやもと宮下みやした一の宮上いちのみやかみ一の宮下いちのみやしも本通上ほんどおりかみ本通中ほんどおりなか本通下ほんどおりしも駅前えきまえ宮川みやがわ野添のぞえだん

飛騨街道石浦いしうら(現高山市)の南西に位置し、同街道宮峠越で南東の山梨やまなし(現久々野町)に通ずる。縦一〇町・横四町(斐太後風土記)、北東から南西に延びる細長い村。南から東境付近を走るくらい山分水嶺で日本海側と太平洋側に分れ、北東に流れる宮川沿いの宮盆地は日本海側、南東部にある段は太平洋側となる。位山道が益田ました上呂じようろ(現萩原町)から位山峠(現同上)越で段に入り、苅安かりやす峠を通って日影に下り水無みなし神社前から石浦に通じていた。

観応二年(一三五一)一月二〇日の足利義詮袖判下文(久下文書)に「飛騨国宮石浦郷地頭職」とみえるのは当地か。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳では大野郡一宮郷に一宮いちのみや村がみえる。山之口やまのくち(現萩原町)とともに高付され高三三三石余、田二四八石余・畑八五石余、物成高一〇〇石余。


宮村
みやむら

[現在地名]蔵王町宮・遠刈田温泉とおがつたおんせん

東は柴田郡たいら(現大河原町)、南東は白石しろいし川によって内親うちおや(現白石市)、南西は深谷ふかや(現白石市)、北は曲竹まがたけ村と接する。中央蔵王より南東流するまつ川とその本流白石川は村の東部で合流し柴田郡に出る。白石川に沿う奥州街道は村の南東端を通り、宮宿から笹谷ささや街道が分岐する。当地の開発は古く、明神裏みようじんうら遺跡はとくに縄文早期のものとして知られ、持長地もつちようじ二屋敷にやしきなどの遺跡も先土器から古墳時代に至る複合遺跡として重視される。「続日本紀」「三代実録」「延喜式」などにみえる刈田嶺神は大刈田おおかつた(現青麻山か)に宿る神霊であるとされ、年代は不明だがのちに宮と遠刈田に社殿が造営されたという。宮字馬場ばば刈田嶺かつたみね神社は「延喜式」の「名神大」の社格をもつ式内社とされ、日本武尊や源頼義・義家の東征伝承と結びつき、白鳥信仰が生じ白鳥神社としても知られる。白鳥信仰は白石川にかつて多数の白鳥が飛来したことと深い関係があるのであろう。伝承によれば、遠刈田の刈田嶺神社は、奈良時代に役小角の叔父願行が大和国吉野の蔵王権現の分霊を移して以来、山岳信仰の聖地になったという。これらから村名が生れたと伝える。


宮村
みやむら

[現在地名]福知山市字宮・字岩崎いわさき

土師はぜ川とその支流竹田たけだ川の合流点から、東方丸山まるやままでの地および土師川の対岸岩崎の地を含む。集落は岩崎のほか野間のま仁田にんだ島田しまだに分れる。岩崎には京街道が通る。宮の地名由来については「丹波志」に「古三輪明神ノ社ヲ建、依之此号有」とある。

仁田付近の水田から石斧二個が出土し、由良川を上った弥生文化の六人部むとべ谷での最先端を示すものと考えられている。また丸山の突端部にある一宮いつきゆう神社(三輪明神)の裏山には古墳がある。明治四一年(一九〇八)発掘され、青銅製の鈴・琥珀の切子玉・瑪瑙の曲玉・金銀環・管玉・直刀などが出土した。

古代には六部むとべ(和名抄)、中世には天龍てんりゆう寺領六人部庄の地。至徳四年(一三八七)閏五月二一日付天龍寺領土貢注文(天龍寺文書)に「六人部庄宮村方三ケ村分」として京進米二一一・五四七石、公事銭一七一貫一五五文が記される。


宮村
みやむら

[現在地名]緑町広田広田ひろたひろた中条広田ちゆうじようひろた

北東流する洲本川支流初尾はつお川流域平野部に位置し、東は金屋かなや(現洲本市)、北は山添やまぞえ村、南は鮎屋あいや(現洲本市)など。福良ふくら街道が北東から南西へ通る。中世には広田庄のうちに含まれ、村名は同庄の鎮守であったとみられる八幡宮があったことに由来する。広田宮村とも称した。正保国絵図には宮村とあり、高五九六石余。天保郷帳では高六八八石余。元禄五年(一六九二)の庄屋組及庄屋名簿(岩村家文書)では金屋組、天明二年(一七八二)には中筋組に属した(「縄納入を拒否蜂起の記録一件」新見貫次氏収集文書)。「味地草」の家数一二五。


宮村
みやむら

[現在地名]川辺町宮

高田たかた村の北東、広瀬ひろせ(万之瀬川)の支流ふもと川の南岸に位置し、宮小路みやこうじ中福良なかふくら松崎まつさきの集落がある。川辺郷の総鎮守飯倉いいくら神社の所在地で、太閤検地以後に高田村を分村したという。嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)によると、時家の嫡子貞泰に「ミやのむら」などが譲られている。建武三年(一三三六)八月二三日、島津道鑑(貞久)が「河辺郡宮村」を川上頼久に宛行っている(「島津道鑑宛行状」旧記雑録)。応永一八年(一四一一)一一月一五日には、川上家久に「河野辺内宮」などが当知行分として安堵された(「島津久豊安堵状」同書)


宮村
みやむら

[現在地名]美里町毛原宮けばらみや

なか村の北、ほぼ南流する貴志きし川沿いに集落があるが、村域は貴志川西岸の山中に広がる。東から北はかみ村、北西は勝谷かちや村に接する。毛原庄の総鎮守である丹生高野にうこうや両明神社(現丹生狩場神社)が鎮座するために宮村の名がある。毛原庄の中心地で、近世も高野山領。「続風土記」は村高一四四石余、家数三八、人数一七九。

村の西方の山腹に小名堺西さかいにしがあるが、「続風土記」は「狭峡西さかいにし」の意であろうとする。


宮村
みやむら

[現在地名]羽曳野市高鷲たかわし一―九丁目・島泉しまいずみ九丁目・野々上ののうえ一丁目など

丹南郡に属し、伊賀いが村の北にある。北宮きたみや村・南宮村に分れていた。北丹下きたたんげ村・南丹下村ともよばれた(明和九年「南島泉村明細帳」吉村尭家文書)。地名は百済系渡来氏族の津連の氏神と伝える大津おおつ神社にちなむという。神社の南側が南宮村、北側が北宮村。文禄三年(一五九四)には宮村の六一九・八五石が北条氏規領(北条家文書)


宮村
みやむら

[現在地名]貴志川町岸宮きしみや

鳩羽はとば山の東南麓に広がる。西は西山にしやま村、南は長原ながはら村。村の東南部で八岡はちおか川と町通ちようどおり川が合流して貴志川の支流丸田まるた川となる。「続風土記」は「荘中の産神八幡宮の在す地なるを以て宮村といふ、村所所に別れ各小名あり、八岡、清水、北ノ側、馬場、西ノ側、新田、丸山といふ」と記す。明徳三年(一三九二)一一月二〇日付の守護大内義弘書下(国立史料館蔵那賀郡古文書)に「紀伊国貴志荘八幡宮領蓮華宮村別当職并灯油田事」とみえる。慶長検地高目録によると村高四七六石余、小物成三升九合。


宮村
みやむら

面積:五二・一七平方キロ

郡の南部に位置し、東は久々野くぐの町、北は高山市、北から西は清見きよみ村、南は久々野町および益田ました萩原はぎわら町・馬瀬まぜ村に接する。村域は北東から南西に細長く延び、両端の距離は約一六キロ、最も幅の広いところで約五キロ。面積の九四パーセントを山林で占める。地形上北東部の宮盆地とそれを囲んで南西に延びて重なり合うくらい山山系とに二分される。萩原町にまたがる位山(一五二九・二メートル)を中心として位山分水嶺山脈が南境から東境付近に延び、太平洋側と日本海側を分つ。


宮村
みやむら

[現在地名]泉大津市宮町・寿ことぶき町・池浦いけうら町四―五丁目・下条げじよう町・宮

南曾根みなみそね村の南に隣接する平坦地の村。もと穴師あなし村とよんだが宮村に改めたといわれ、近くに泉穴師いずみあなし神社が鎮座するのにちなむという(大阪府全志)。「日本霊異記」中巻第一〇にみえる和泉郡痛脚あなし村にあてる説があり、同書には常に鳥の卵を煮て食したため、足を焼かれた痛脚村の男の話を載せる。中世は我孫子あびこ郷に属し、慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図では我孫子村一千二二一石余に含まれた。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳には九五石余とあるが、元禄初年の「泉州志補遺」には常陸土浦藩領宮村九五石余と、武蔵岩槻藩領宮村一三八石余がみえるので、和泉国郷村帳には本村である後者が落ちている可能性が大きい。


宮村
みやむら

[現在地名]富山市宮町

常願寺川と神通川に挟まれた平地のやや東寄りの水田地帯に位置し、加賀藩主往還路(北陸街道)と北陸街道(巡見使道)を結ぶ道が通る。東は針原中はりわらなか村。村名は南の三上みかみ飯野いいの八幡宮の社地に村立てしたことに由来すると伝える(越中志徴)。元和五年(一六一九)の三介組借米渡口覚(三辺家文書)に、富山御蔵での請取分として「飯野之内宮村」は一七俵とみえる。


宮村
みやむら

[現在地名]宮津市字宮村

そう村の西南に位置し、山裾に集落がある。慶長七年(一六〇二)七月の宮津下村御検地帳(筑波大学蔵)に「猪ノ岡」「猪ノ岡村」と記すのは宮村をさすと思われる。いまも宮村の八幡神社を猪岡いのおか八幡と称し、八幡宮近辺には小字猪ノ岡がある。宮村はもと「イノオカ」と称したが宮村と改めたという土地の伝承も残る。

慶長検地郷村帳に「下宮津之内」として「宮村」とみえるが、その後個別に高付され延宝三年郷村帳に「下宮津宮村」一五〇・六五七石と記される。同九年(一六八一)の延高により二三三石余、「内三斗九升七合宝性院八幡(ママ)領」となる(天和元年宮津領村高帳)宝性ほうしよう院は村内の如願によがん(高野山真言宗)塔頭六院の一、八幡社の別当を兼ねていた。


宮村
みやむら

[現在地名]大垣市見取町みどりちよう

水門すいもん川右岸の平坦地、大垣輪中の中央に位置し、南は大垣城下に接する。永仁三年(一二九五)六月の大井庄有司間人検注名寄帳案(筒井寛聖氏所蔵文書)に「宮殿」、元徳二年(一三三〇)の大井庄三方会料名寄帳(東大寺図書館蔵)に「宮刑部」、文安二年(一四四五)のものと推測される石包名未進注進状(同館蔵)に「ミヤ ヒヤウヘ」とみえ、いずれも当地の住人と推定される。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に宮村とみえ、村高三三二石余。正保郷帳では田高一七八石余・畑高六五石余。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では高二九八石余。正保元年(一六四四)の家数一六・人数五五、弘化二年(一八四五)の家数五七・人数二〇九(大垣藩地方雑記)


宮村
みやむら

[現在地名]栃木市宮町

皆川城内みながわじようない村の北に位置し、中央を永野ながの川がほぼ南流する。東は吹上ふきあげ村。南沢みなみさわ入沢いりさわなどの地名があり、水には恵まれていた。慶安郷帳などに三谷みや村とあり、元禄郷帳に古くは三谷村と記されている。「皆川正中録」に皆川氏の要害の地として宮村とある。慶長一四年(一六〇九)までは皆川広照領(延享元年「皆川歴代記」皆川又太郎文書)。慶安郷帳では田七五石余・畑四九九石余で幕府領。寛文四年(一六六四)の武蔵岩槻藩領知目録に宮村と記される。貞享元年(一六八四)より元禄七年(一六九四)まで堀田正虎領(紀氏雑録続集)


宮村
みやむら

[現在地名]岩出町宮

紀ノ川中流北岸にあり、東は清水しみず村、南は紀ノ川を挟んで上三毛かみみけ村。「続風土記」は「此村昔は岩手村といふ、此地に総社明神を勧請せしより宮村といふ」と記す。当村の旧名岩手いわで村は、大治元年(一一二六)七月日付の平為里私領寄進状案(根来要書)に「在紀伊国那賀郡河南院字石手村」とみえ、その四至に「限東岡田村西堺并沼田畠、限南大河、限西市村東堺、限北弘田庄南境」とある。この村域は四至に東は岡田おかだ村とあるから、近世の宮村よりも広域であった。宮村に岩手の呼称が残ったのは石手いわで庄の産土神惣社そうじや権現社(現大宮神社)があることから、同庄の中心地と考えられていたからであろう。

慶長検地高目録によれば村高一六三石余、小物成八斗四升八合。


宮村
みやむら

[現在地名]砺波市宮村

堀内ほりのうち村の南にあり、千保せんぼ川跡の左岸に位置する。中世の油田あぶらでん条のうちで、その総社(現日吉神社)があったことから宮村と称したといわれる。元和五年(一六一九)の家高新帳には「宮」とあり、開発組に属し役家数五。正保郷帳では高五〇九石余、田方三三町三反余・畑方六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では油田宮村とあり、草高四一一石・免三ツ九歩、小物成は野役八三匁・鮎川役一二匁・鱒役九匁(三箇国高物成帳)。役家数は延宝四年(一六七六)には二〇軒、うち無家役二軒(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)。文政八年(一八二五)時および天保一〇年(一八三九)以後は般若組に属した。文政三年新たに舟戸口ふなとぐち用水が開削されたことにより、東部の千保川跡の新開が進んだ。


宮村
みやむら

[現在地名]立山町上宮かみみや

長屋ながや村の南に位置し、西は小林こばやし村。村名は大永年間(一五二一―二八)すえ庄宮村社の創建にちなむと伝える(五百石地方郷土史要)。明暦二年(一六五六)の村御印留に村名がみえ、寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高一六九石、免三ツ五歩(三箇国高物成帳)。天明三年(一七八三)飢饉のため減免された(「当作損毛御用捨村々免状帳」杉木家文書)。所属組は長倉ながくら村と同じ。


宮村
みやむら

[現在地名]和田山町宮

和田わだ村の東、東河とが谷の奥に立地する。「延喜式」神名帳に記す朝来郡九座の一つ「刀我石部神社」は当地の同名社に比定される。正保(一六四四―四八)頃の国絵図に村名がみえ、高三三〇石余。天明八年(一七八八)の高村附邑名控でも高三三〇石余。幕府領として推移したと考えられるが、明治二年(一八六九)に丹波篠山藩領となる。石部いそべ神社は衣摺きすり山麓にあるところから衣摺明神ともいう。祭礼には正保四年円明えんみよう寺の石垣普請に来ていた尾張の石工職人が伝えたという獅子舞が奉納される。獅子面や天狗面をかぶり、幣・太刀・鈴などをかざし振りながら、幕切り・悪魔払・花掛り・仕立て・剣の舞・幣の舞・鈴の舞・昇殿の八種目を、笛・太鼓・囃子方・世話方など村中総出で古式豊かに奉納。


宮村
みやむら

[現在地名]上石津町宮

牧田まきだ川左岸にあり、北は禰宜ねぎ村、南西は羽賀原はがはら村。「新撰美濃志」には宮村・宮地村などという地は必ず大神の神のいた旧地なるが故と地名由来を記す。当地にも大神おおみわ神社が鎮座する。文禄五年(一五九六)の多良山年貢割帳(西脇文書)に村名がみえ、宮山分の山年貢五升を割当てられている。元和四年(一六一八)の時・多良村川成内検目録(東高木文書)に田畑二反余の米高二石余・定米一石余とある。同九年の時・多良郷家付帳(同文書)では家数一六六のうち奉公人二六、馬四五・牛二四。寛永六年(一六二九)の徳川家光朱印状(市田文書)では当村のうち六五石余が旗本高木貞勝(西高木家)に、同年の同朱印状写(江口文書)では当村のうち五七石余が高木貞俊(北高木家)に宛行われている。


宮村
みやむら

[現在地名]掛川市八坂やさか

さか川の右岸にあり、東は海老名あびな村、南は影森かげもり村。東海道が通る。村名は事任ことのまま八幡宮の鎮座地であることに由来する。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高一五四石余。正保郷帳では田方一二五石余・畑方五二石余、幕府領。元禄郷帳では高二〇〇石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領、八幡領。「掛川誌稿」では旗本太田領。旧高旧領取調帳では太田領一七九石余。元禄一〇年(一六九七)には日坂につさか宿の定助郷で勤高一七九石(掛川市史)


宮村
みやむら

[現在地名]美里町長谷宮はせみや

かみ村の東北に位置し、西流する貴志きし川の北岸に平地がある。東は馬場ばば村。中世は長谷郷に属し、その貴志川最下流の地にあったためしも村ともよばれたらしい(続風土記)。建保三年(一二一五)一〇月一八日の僧明憲田畠・山地譲状(中家文書)に「長谷之郷下村西之垣内」とある下村が当地と考えられる。宮村の名は伊都いと那賀なが両郡にわたる長谷郷五ヵ村の総産土神である丹生高野にうこうや両大明神社(現丹生神社)が当地に鎮座することによる。


宮村
みやむら

[現在地名]いわき市内郷宮町うちごうみやまち

しん川支流の宮川上流部にあり、南は白水しらみず村、東は高坂たかさか村、北は上好間かみよしま村。磐前いわさき郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛文一〇年(一六七〇)以降湯長谷藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録にみや村とあり、高二七四石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)に宮之村とあり、高三四五石余。


宮村
みやむら

[現在地名]六日町宮

宮村下新田の東、北・東は三国さくり川を挟んで深沢ふかさわ村・小川おがわ村、南は五十沢いかさわ川を挟んで中川なかがわ村・京岡きようおか村。天和三年郷帳では高九八石五斗余のほかに同所上新田高五五石五斗余、同所中新田高五一石三斗余が記される。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では高二〇五石四斗余のうち新田畑一〇六石八斗余。反別は田一二町余・畑一六町九反余。


宮村
みやむら

中世にみえる彼杵そのき庄内の地名。弘安六年(一二八三)三月二日の某(北条時定か)書下写(福田文書)に宮村諸次郎がみえ、当地に関連する者と思われる。永仁七年(一二九九)六月二六日の鎮西裁許状(尊経閣文庫蔵東福寺文書)に「当庄宮村諸次郎通兼」とみえ、領家一代一度の検注を遂行しなかったので彼杵庄の雑掌が訴えたところ、その召喚にも応じなかったらしく、鎮西探題金沢実政から検注を命じられている。なお古くは父賀志ふかし浦または父賀志村と称されていたが、宇都宮うつのみやの祭祀から宮村と改めるようになったという(永和二年八月吉日「医王寺鐘銘」宮村神社旧蔵など)。正平一七年(一三六二)通を通字とする宮村駿河守藤原通景・同勘解由太夫藤原通茂・同掃部助藤原通治・同彦五郎藤原通種・同江上弾正忠藤原通宜らの宮村諸氏が彼杵一揆に参加している(同年九月日「彼杵一揆連判状断簡写」福田文書)


宮村
みやむら

[現在地名]東金市宮

三門みかど村の北に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二四二石。「家忠日記」天正二〇年(一五九二)三月六日条によると、宮田郷東金とうがね近辺一二七石余が松平家忠領となっており、同年一月二五日の松平家忠知行書立では東金近辺の宮内之郷内とあるが、これは当地のことと思われる。元和五年(一六一九)から高一二一石余が北町奉行組与力給知となり、幕末まで同じ(「地頭所取扱村々記」小倉家文書など)。正保国絵図でも高二四二石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では関内組に属し、一七六石。


宮村
みやむら

[現在地名]日野市宮など

上田かみだ村の東にあり、南はあさ川を限る。寛永一四年(一六三七)検地が行われた(皇国地誌)。田園簿に宮村とあり、田方六五石余・畑方二六石余、幕府領。「風土記稿」によると上田村の飛地が混在し村域は入組んでいる。水田が多く畑は少ない。家数二七。旗本志村領と幕府領。志村領は元禄一一年(一六九八)からという。旧高旧領取調帳では幕府領五六石余・旗本志村領六〇石余。日野宿の助郷役を勤め、勤高は一一一石余(宝暦一二年「助郷村高書上控」国文学研究資料館史料館蔵富沢家文書)


宮村
みやむら

[現在地名]美里町真国宮まくにのみや

貴志きし川の支流真国まくに川北岸に集落があり、東は蓑津路みのつろ村、西は蓑垣内みのがいと村に接する。真国庄の中心で産土神丹生高野にうこうや明神社(現丹生神社)があることから宮村と称する。室町時代の年不詳諸供領臈次番付書(又続宝簡集)に「二百廿臈 真国庄内中村水田三百歩字部賀田」とある中村が当地と考えられる。


宮村
みやむら

[現在地名]表郷村八幡やわた

やしろ川と藤乃ふじの川の合流点左岸に位置する。南は関場せきば村、東は中寺なかでら村、北は形見かたみ(現東村)、西は小松こまつ村。初め会津領、寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保元年(一七四一)以降越後高田藩領。白河古領村郷高帳では高八一二石余。


宮村
みやむら

[現在地名]吉川町前田まえだ

脇田わきだ村の西に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では脇田村・吉田よしだ村とともに御前田おまえだ村一村で高付される。元禄郷帳では三村に分れており、「古ハ御前田村」と注記され、高一二九石余。村高は幕末まで変わらない。旧高旧領取調帳では高一二九石余のほかに除地六石余がある。分村頃と思われる延宝七年(一六七九)に幕府領となり、延享元年(一七四四)大坂城代・出羽山形藩堀田氏領となる(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵)


宮村
みやむら

[現在地名]鹿央町千田ちだ

北流する千田川右岸の台地西斜面一帯に位置し、東は久野ひさの村、西は千田村と接する。もとは千田村のうちで、聖母しようも(千田)八幡宮にちなみ村名にしたという(国誌)。近世は玉名たまな郡中富手永に属する。慶長一三年(一六〇八)の検地帳によると田八町九畝余・畠六町二反五畝余・屋敷六筆五反二畝余、分米一五四石、家数五・人数一二、牛馬五、下ケ名には、としのかみ・うめはつれ・しそ野・若宮などがある。


宮村
みやむら

[現在地名]長浜市宮前町みやまえちよう神前町しんぜんちよう

長浜町の北地に接し、北は三津屋みつや村、寛永石高帳に高三五六石余とあり、うち彦根藩領二九〇石余、八幡宮領六六石余。旧高旧領取調帳では彦根藩領二九〇石余、八幡宮領六二石余に減少する。慶長七年(一六〇二)の八幡宮領五箇村検地帳(富田文書)のうち宮村分のみが残り、四三筆の田畑と名請人が記され、上田二町八反余・分米五四石余、上畑二反余・分米四石余、屋敷二反余・分米二石余、合計三町四反余・分米六二石余、このほかに屋敷一町一反余とある。


宮村
みやむら

[現在地名]丹後町宮

竹野たかの村の南方、竹野川下流右岸に位置する。東は山を負うが、そのほかは開けて水田地帯である。村内に古墳前期の神明山しんめいやま古墳があり、式内社竹野神社が鎮座する。村名は竹野神社の所在にちなむ。

古代は竹野郷(和名抄)の地。慶長検地郷村帳には高一二七・〇九石「宮村」と出るが、延宝九年(一六八一)の延高で一八九石余となった(天和元年宮津領村高帳)


宮村
みやむら

[現在地名]篠山市畑宮はたみや

大淵おおぶち村の北東にあり、はた川が流れる。中ほどに式内社とされる佐佐婆ささば神社が鎮座。古くは里畑さとはた村のうちで、正保郷帳に「宮村」とみえ、田高一九七石余・畠高二一石余。元禄郷帳では里畑を冠称し、高二二六石余。「丹波志」では宗部そがべ郷のうちで、高二〇八石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では畑組で、家数二七・人数一三四。


宮村
みやむら

[現在地名]倉吉市小鴨おがも

市場いちば村の東、小鴨川左岸の平坦地に位置し、南は蔵内くらうち村。拝領高は三七石余、本免は四ツ四分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高四五石余、竈数一一、村内に荒神を祀る。幕末の六郡郷村生高竈付では生高九九石余、竈数九。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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