日本大百科全書(ニッポニカ) 「宮城門」の意味・わかりやすい解説
宮城門
きゅうじょうもん
宮城(大内裏(だいだいり))の周囲の大垣に設けられた門。外郭門、外門(がいもん)ともいう。藤原宮、平城宮では四面に各3門あって宮城十二門と称されたが、平安宮は南北が長いため東西1門ずつ増えて14門あった。
平安宮では南側の中央が正門で朱雀(すざく)門。東西に美福(びふく)・皇嘉(こうか)門、東側は北から上東(じょうとう)・陽明(ようめい)・待賢(たいけん)・郁芳(いくほう)門、西側は同じく上西(じょうさい)・殷富(いんぷ)・藻壁(そうへき)・談天(だんてん)門、北側は中央が偉鑒(いかん)門で、東西に達智(たっち)・安嘉(あんか)門。このうち、上東門、上西門が増えた門である。この2門は別名を土御門(つちみかど)、西土御門(にしのつちみかど)とよばれたが、その名のとおり築地(ついじ)を切り開いただけの入口であった。
この両門および朱雀門を除く宮城門の名称は818年(弘仁9)唐風に改名されたもので、以前は壬生(みぶ)、佐伯(さえき)といった氏族の名が冠されており、朱雀門も古代には大伴(おおとも)門とよばれていた。そして美福門(壬生門)のように新しい名称にもとの発音が残されている。これらの氏族は飛鳥(あすか)時代以前から天皇を警護する役割をもっており、6世紀ころ大伴氏に統率されて、宮城門の警備を担当するようになったため、各門にその氏族の名がついたとされている。しかし、奈良時代にはすでにその実体はなく、衛門府(えもんふ)が宮城門の警備にあたるようになり、平安宮でも同じであった。平安宮では内裏にもっとも近い陽明門が重要性をもち、貴族や官人たちの通用門ともなった。そのため平安中期以降には、農民たちが国司の非道を訴える受領(ずりょう)愁訴が、多くこの門外で行われた。
[吉田早苗]