平安京の宮城。平安京の中央北部を占め,築地塀で囲まれた内部には,内裏(だいり)と諸官衙が群立していた。この場所は,平安遷都以前,当地方の豪族,秦河勝(はたのかわかつ)の屋敷があったと伝え,紫宸殿(ししんでん)前の梅にその伝承を残している。宮域内の居住者からは土地を収用し,他所に代替地を与えた。宮城の規模や構造については,鎌倉時代に写された大内裏図によって知られ,また江戸後期,裏松光世の研究になる《大内裏図考証》が参考にされてきた。すなわちこれらによって平面構成は,その北辺が京域の北極大路に接する,いわゆる北闕(ほつけつ)型と考えられてきたが,近時の研究により,当初の宮城(第1次平安宮)は,その北辺と北極大路との間に2丁の空間をもつ,いわゆる藤原京型であったこと,それが9世紀の末,大蔵倉庫群の整備のため北へ2丁拡大延長されて北闕型(第2次平安宮)となり,その際宮城門も上東,上西の2門が設けられ14門となったこと,などが指摘されている。
内裏については,平安宮独自のものとして,その西方に〈宴(えん)の松原〉と呼ばれる一定の空間があった。饗宴のための広場とも,内裏を建て替えるときのための余地とも考えられるが,ともにその事実がなく,明らかでない。内裏の正殿である紫宸殿を南殿(なでん)ともいうのは,その北にある仁寿殿(じじゆうでん)に対するもので,前殿と後殿の関係をなす。南殿の南階両側には,当初梅と橘とが植えられていたが,梅が承和年間に枯れたのを機に,桜に改められている。左近の桜・右近の橘がこれである。紫宸殿の西には清涼殿があり,天皇の日常居所とされたが,ここで天皇が没した場合,建物を解体して建て替えた例があり,歴代遷宮の残映とみられる。南庭や清涼殿の東庭は,各種宮廷行事の場として用いられることが多かった。年中行事といえば,清涼殿南廂,殿上(てんじよう)の間の東に置かれている〈年中行事障子〉は,9世紀末の宇多天皇のとき,藤原基経が献進したのにはじまるが,相前後してつくられた賢聖障子(はじめ清涼殿,のち紫宸殿)とともに,王朝政治の骨格がこのころにできたことを物語っている。また近衛兵の詰所である陣座(宜陽殿と校書殿)が公卿会議の場とされたことから,これを陣儀とか仗儀と称した。仁寿殿,清涼殿の北に設けられた殿舎が後宮で,七殿(承香(しようきよう)殿,常寧(じようねい)殿,貞観殿,弘徽(こき)殿,登華殿,麗景殿,宣耀(せんよう)殿),五舎(飛香(ひぎよう)舎,凝花(ぎようか)舎,襲芳(しゆうほう)舎,昭陽(しようよう)舎,淑景(しげい)舎)をかぞえたが,当初から十二殿舎があったわけではなく,后妃の制,とくに女御(にようご),更衣(こうい)の制が拡充されたのにともない,順次整備されたものとみられる。ここには後宮十二司に所属する女官が仕えたが,摂関時代になると后妃に付された多数の女房たちも局を与えられて奉仕し,宮廷文芸の場となった。
内裏と朝堂院の分離は,従来は長岡宮にはじまるとされていたが,平城宮址での発掘データが再検討され,平城宮でも当初は分離していたと考えられるようになった。しかし平安宮の朝堂院では,大極殿前が築地塀のかわりに竜尾壇(りゆうびだん)となり,開放空間となった。大極殿の機能が行事中心となった結果であり,これは朝堂院の西に豊楽院(ぶらくいん)が設けられ,遊宴の場とされたのと軌を一にしている。
内裏と朝堂院,豊楽院の周辺に群立していたのが,諸官衙である。配置の上では,先述の理由から北辺部に大蔵省の倉庫群が置かれ,内裏の東西に近衛府,兵衛府が置かれていたのが特徴的で,内裏の東南部に太政官,民部省などの中枢官庁が集中していた。もっとも9世紀初頭をはじめ,いくどか官衙の統廃合が行われているから,時代による変遷があった。これらの諸官衙に,8000~9000人ないし1万人にのぼる貴族官人たちが出仕していたわけである。
平安宮の変貌をもたらしたものに,たびたびにのぼる焼失がある。ことに内裏については村上天皇のとき,遷都170年目の960年(天徳4)9月に全焼したのを初度として,以後たびたび罹災し,摂関政治の盛期に限っても6,7年に1度は焼けた計算になる。そのつど再建されたが,その間天皇は他所での仮住いを余儀なくされた。いわゆる里内裏は,2度目の976年(貞元1)5月の罹災の際,円融天皇が太政大臣藤原兼通の堀河第に約1年間滞在したのにはじまり,その後,藤原詮子の一条院,道長の東三条殿,枇杷(びわ)殿,頼通の高陽(かや)殿などが用いられているが,ほんらいの内裏は1227年(安貞1)4月の京中大火に類焼して以後,再建されることはなく,里内裏が皇居そのものとなった。鎌倉時代では閑院が主たる内裏であったが,1259年(正元1)5月に焼亡して後は再建されず,結局内裏は東洞院土御門殿に定まった。いまの京都御所の前身である。
一方,官衙の方も,平安末期の1177年(治承1)4月,京中の過半を焼いたという大火,いわゆる太郎焼亡により,大極殿以下がほぼ全焼,廃墟と化した。
古くから宴の松原一帯が内野(うちの)と呼ばれていたが,ここに至って宮城全域に拡大され,鎌倉時代には内野の蕪が京の名産となっている。朱雀路を北に延長した道が内野を通り,いつしか千本通と呼ばれるようになるが,これは,一帯に多くの卒塔婆の立つ葬送地となったことによるものであろう。
→宮城 →皇居 →内裏
執筆者:村井 康彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…ここでも大極殿・朝堂院は礎石・瓦葺建物で,内裏やほとんどの役所は掘立柱建物であったことがわかっている。難波,藤原,平城,長岡の大極殿はすべて回廊でとざされ,前の朝堂院とは別区画であったが,平安宮では前面の閤門(こうもん)を取り除いて竜尾壇に改め威儀をととのえる改良が行われた。内裏建物群は平城宮までは正殿をはじめすべて1棟ずつ独立していたが,平安宮のある時期に正殿・紫宸殿と後殿・仁寿殿その他が接続して雨天にも行動が自由なように改良された。…
…このうち(1)は伊勢神宮などの式年遷宮の慣行に通じ,(2)は天皇が没した殿舎を撤却する後世の慣習に通ずるところがあり,(3)(4)は(2)との関連も考えられる。しかし持統朝に中国風の本格的な宮室・都城として藤原宮・藤原京が営まれるに至って,歴代遷宮の風習は廃れ,さらに持統・文武2代の藤原宮都から,平城・長岡の宮都を経て,平安宮・平安京が造営されるに及び,〈万代の宮〉と定められた。
[古代の宮室]
古代の宮室のうち,ある程度その構造がわかるのは,推古天皇の小墾田(おはりだ)宮が最初である。…
…〈しげいさ〉とも読む。平安宮内裏五舎(飛香,凝花,襲芳,昭陽,淑景舎)の一つ。庭に桐を植えたので桐壺(きりつぼ)とも称する。…
…〈おおうち(大内)〉〈うち〉ともいった。平安宮では,南北100丈(約303m),東西70丈(約212m)の区画をもち,北半分の後宮部分と南半分の天皇の常住区郭とに分かれ,両者の間は瓦垣でへだてられ,一応区別されていた(図)。後宮部分は常寧殿(じようねいでん)を中心に飛香舎(ひぎようしや),貞観殿(じようがんでん)などの殿舎からなり,妃,女御などの居住区域となっていた。…
※「平安宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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