日本古代の中央軍事機構としての衛府の一つ。大宝・養老令制では左右衛士府,左右兵衛府とともに五衛府を形成した。その成立は701年(大宝1)ころとみられる。督,佐,大尉,少尉,大志,少志などの官人があり,大化前代の靫負(ゆげい)の系譜をひく門部200人と,農民出身の衛士とが武力として配置され,また刑罰執行にあたる物部30人も所属した。衛門府衛士の数は時に応じて増減があり,741年(天平13)には200人を加置,805年(延暦24)には400人から300人に減員した。宮門(中門)・宮城門(外門)の守衛,出入りする人物・資財の点検を主たる職務とし,また隼人司を管した。758年(天平宝字2)司門衛と改称したが,764年旧に復した。808年(大同3)左右衛士府に併されたが,811年(弘仁2)には左右衛士府を左右衛門府と改称,左右近衛,左右兵衛4府と並ぶ六衛府制の一環としての左右衛門府が成立した。平安初期の衛門府官人は警固使,追捕使(ついぶし)などとして活躍,やがてこの官人を中心に,中央の警察機構としての検非違使(けびいし)が発展していった。
執筆者:笹山 晴生
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五衛府の一つ。和名「ゆげいのつかさ」。武力は門部(かどべ)200、物部(もののべ)30、衛士数百。隼人(はやと)司を管掌し、衛門、隼人、門の出入の管理にあたった。衛門、門の出入の管理は、大宝律令(たいほうりつりょう)(701)直前には宮守官があたっており、衛門府の成立はそれ以降であろう。
[野田嶺志]
大宝・養老令に規定された衛府の一つ。養老令によれば督(かみ)・佐(すけ)・大尉・少尉・大志・少志の四等官がおり,その下に門部(かどべ)200人,物部(もののべ)30人,衛士(えじ)らが所属,また隼人司(はやとのつかさ)が属した。職務は宮門・宮城門を禁衛し,出入りを検察することなどである。758~764年(天平宝字2~8)の藤原仲麻呂による官号改称では司門衛(しもんえい)といった。808年(大同3)廃止,左右衛士府に併合されたが,811年(弘仁2)左右衛士府は左右衛門府と改称され,後世まで存続した。
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…中国では魏・晋のころから発達し,唐では天子十六衛,東宮十率府があった。日本では大化改新後,中国にならって制度が整備され,旧来の舎人(とねり)の伝統をうけつぐ兵衛,衛士をひきいる左右衛士府,衛士と旧来の靫負(ゆげい)の伝統をうけつぐ門部とからなる衛門府などがあいついで生まれ,701年(大宝1)までに衛門府,左右衛士府,左右兵衛府からなる令制の五衛府が成立した。五衛府の兵力の主体は農民出身の衛士であるが,宮内の宿直,閤門(内門)の守衛など重要な職務は,地方豪族,下級官人層出身の兵衛が担当した。…
※「衛門府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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