宮崎虎蔵(読み)みやざきとらぞう

改訂新版 世界大百科事典 「宮崎虎蔵」の意味・わかりやすい解説

宮崎虎蔵 (みやざきとらぞう)
生没年:1871-1922(明治4-大正11)

中国革命運動の協力者。熊本県荒尾の人。寅蔵とも記されるが,戸籍名は虎蔵。号は白浪庵滔天(とうてん)。宮崎滔天の呼称でも知られる。父は郷士の長蔵,母は佐喜,長兄八郎,ほかに民蔵・弥蔵の兄がいる。虎蔵は官憲ぎらい民権びいきの家にそだち,〈先天的自由民権家〉と自称したが,のち中国革命のよき援助者となった。青少年期における大江義塾,東京専門学校等の頻々たる転校,キリスト教への入信と棄教は,その偽善への嫌悪と自己の心情に忠実たらんとする純粋さの発露である。結局彼が到達したのは,日本ひいては世界の民衆を救済するためにはまず中国の革命から始めねばならぬとの革命論であった。これは兄弥蔵(1866-96)の思索の成果に賛同したのだが,その実践においては早逝した兄の分までひきうけて奮闘したかの観がある。1897年に孫文と相知った虎蔵は,99年には孫文とともにフィリピン独立戦争を助け,翌年には孫文の恵州蜂起を援助した。蜂起失敗後,某政商の背任事件との関連で虎蔵は一時革命運動の戦列をはなれて浪花節語りとなって生計の途を講ずるのだが,この間に自伝《三十三年之夢》を書いて革命家孫文を世に紹介した。

 ついで1905年,黄興と孫文とを提携させて中国同盟会の成立をうながした。同会機関誌《民報》の発行所を自宅に置いたばかりでなく,萱野長知らと《革命評論》を創刊して側面援助にもつとめた。当時の風潮としては,朝野とも康有為らの改良運動支持がつよかったなかで,革命運動を支持したのである。また同盟会の内訌にあたっては,虎蔵は一貫して孫文を支持し,心からの友人としての関係を確固たるものにした。辛亥革命後,大総統袁世凱が彼の功労に報いるために与えようとした中国米の輸出権を拒否し,その後も中国革命に対する友人の姿勢をくずさなかった。晩年は大宇宙教にこり,22年12月6日,尿毒症で没した。妻は前田家の槌(つち)(《草枕》のモデルの卓(つな)の妹),息子竜介は社会運動家として知られる。また大陸浪人の呑宇清藤幸七郎(1872-1931)は遠縁にあたる。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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