中国の革命家,湖南省長沙の人。原名は軫,字は克強,号は廑午。書香の家に生まれて秀才になったが,戊戌(ぼじゆつ)変法のころに新思想に接し,1902年(光緒28)に日本に留学した。主として軍事学を学ぶとともに,軍国民教育会等の反清革命組織を結成し,翌年長沙に帰って華興会,同仇会(会党との連絡組織)を組織した。04年,蜂起に失敗して日本に逃げ,宮崎滔天にめぐりあった。翌年,滔天を介して来日した孫文と対面し,協力して中国同盟会を創立,ナンバー2の地位に就いた。同盟会時代,黄興は武装蜂起の前線指揮官として八面六臂の活躍をし,敵からもその豪胆を称賛された。とりわけ有名なのが必敗覚悟で決起し九死に一生を得た黄花岡蜂起である。武昌蜂起の成功後,革命軍の戦時総司令となり,中華民国臨時政府では陸軍総長となった。清朝崩壊後,孫文も黄興も袁世凱と協調して新しい共和国を建設するつもりだったが,袁世凱は機を見て革命派と革命の成果とを一掃するつもりだった。13年春にまず宋教仁が暗殺された。このとき孫文が即座に討袁を主張したのにたいし,黄興は法律による解決を主張,ついで第二革命では重要な役割を果たしながら,中華革命党の組織には加わらなかった。この時期,孫文とはかなり隔った位置にいたのである。しかし第三革命ではまた孫文との協力関係にもどり将来を期待されたが,辛亥革命5周年の当日に倒れ,ややあって没した。袁世凱の帝政失敗直後のことでもあり,民国政府は盛大な国葬でもって報いた。墓は長沙西郊岳麓山にある。理論・組織の孫文,文章・宣伝の章炳麟と黄興とを〈辛亥革命の三尊〉と呼ぶが,自己犠牲の敢闘精神に溢れた黄興の生涯はまさしく革命家のそれであった。なお宮崎滔天とは終生あい許しあい,日本人のなかではもっとも親密な間柄であった。
執筆者:狭間 直樹
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中国の革命家。湖南(こなん)省善化県(長沙(ちょうさ)市)の人。克強と号した。武昌(ぶしょう)の両湖書院に学ぶ。唐才常(とうさいじょう)の自立軍蜂起(ほうき)に加担。1902年(明治35)、張之洞(ちょうしどう)に選ばれて東京に留学し、留日学生の指導的分子となる。翌1903年、帰国して華興会を組織。会党と蜂起を計画し、失敗して日本に亡命。孫文(そんぶん)に協力し、1905年に中国同盟会を組織。最高軍事指導者として、何度も武装蜂起を企て、失敗を重ねた。辛亥(しんがい)革命で武昌防衛と南京(ナンキン)攻略を指揮し、中華民国が成立して孫文を臨時大総統とする南京臨時政府の陸軍総長となった。第二革命に敗れ、日本に亡命。孫文と意見を異にして渡米。第三革命で、1916年に帰国し、孫文と手を結んだが、まもなく病死した。
[野澤 豊]
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1874~1916
清末から民国初期の革命運動家。湖南省長沙の人。1900年唐才常(とうさいじょう)の自立軍に参加。01年東京に留学,03年帰国。革命団体の華興会をつくって蜂起を計画したが,失敗して日本に亡命。孫文と中国同盟会を組織。06~11年間に湖南,広東,雲南で次々に暴動を起こした。11年武昌蜂起ののち,革命軍の戦時総司令として戦って敗退,ついで南京臨時政府の陸軍総長に就任,13年袁世凱(えんせいがい)打倒の兵を挙げて敗退,アメリカに亡命した。
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…中国,清末の民族・民主革命結社。帝政ロシアの東北(旧満州)侵略を引金に,留日学生出身の黄興,陳天華らが,1904年(光緒30)2月,長沙で宋教仁,譚人鳳らとともに結成した。同仇会は,会党哥老会の頭目馬福益の協力を得て作られた別働隊で,日本軍を手本に組織され,数万~10万人を動員したという。…
…しかし袁世凱はそれも独裁への障害であるとし,3月,国民党の中心人物である宋教仁を暗殺した。 孫文はこの段階で反袁武装闘争の必要を認識したが,黄興をはじめ多くは法律による解決を主張した。その間に袁世凱は国会の権限を踏みにじってイギリス,ドイツ,フランス,ロシア,日本の5国銀行団から2500万ポンドにもおよぶ善後借款を結び態勢をととのえた。…
…1905年8月,日本の東京で甘粛省をのぞく本土17省の留学生300余名を結集して組織された。総理は興中会以来の革命歴を背負う孫文,副総理格の執行部長に華興会の創立者で留学生に人望のあった黄興がついた。綱領は〈駆除韃虜,復中華,創立民国,平均地権〉(四綱)で,別の言い方では民族・民権・民生の三大主義である(のちに三民主義とよばれる)。…
…蜂起失敗後,某政商の背任事件との関連で虎蔵は一時革命運動の戦列をはなれて浪花節語りとなって生計の途を講ずるのだが,この間に自伝《三十三年之夢》を書いて革命家孫文を世に紹介した。 ついで1905年,黄興と孫文とを提携させて中国同盟会の成立をうながした。同会機関誌《民報》の発行所を自宅に置いたばかりでなく,萱野長知らと《革命評論》を創刊して側面援助にもつとめた。…
※「黄興」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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