日本大百科全書(ニッポニカ) 「宮本隆司」の意味・わかりやすい解説
宮本隆司
みやもとりゅうじ
(1947― )
写真家。東京都世田谷区に生まれる。多摩(たま)美術大学在学中の1969年(昭和44)学園紛争のさなかに政治と美術のかかわりについて先鋭的な提言と活動を行ったグループ「美共闘(美術家共闘会議)」に、後に現代美術作家として活躍する同級生の堀浩哉(こうさい)(1947― )、彦坂尚嘉(なおよし)(1946― )、後の写真家石内都(いしうちみやこ)らと参加。73年同大学美術学部グラフィックデザイン学科卒業。建築雑誌の編集に携わった後、76年フリーランスの写真家として独立。77年初の個展「晩香坡(バンクーバー)・カナダの街から」開催(シミズ画廊、東京)。
1983年東京・中野刑務所の解体現場を撮影したことをきっかけに、日比谷(ひびや)映画劇場(東京都)、根岸競馬場(横浜市)など、日本近代史において重要な記憶を内包する建築の解体過程をつぎつぎに記録、86年の個展「建築の黙示録」(ヒルサイドギャラリー、東京)で発表する。87年には香港(ホンコン)の九竜城砦に潜入し、巨大な迷宮と化したこの建築の内外を撮影する。イギリス植民地だった香港のなかで長く治外法権的な環境にあり、第二次世界大戦後の一時期には犯罪の温床として知られたこの場所のもつ神秘的な魅力を引き出した。
日本の近代建築の解体現場から九竜城砦までを収めた連作「建築の黙示録」は、1988年同名の写真集にまとめられ、翌89年(平成1)木村伊兵衛写真賞受賞。80年代後半における宮本の一連の作品は、建築写真の基本的な枠組みを踏まえた端正な構成力を示しつつ、廃墟的な建築の喚起する生々しい物質感を定着させている。発展しつづける都市文明のかたわらで見過されがちな建築物の解体、消滅過程をとらえることにより、都市の記憶や歴史の領域に見る者の目を向けようとする。
1990年代に入るとバブル経済崩壊後に東京に点在するようになったホームレスの仮設住居に着目。それらを撮影した写真を94年の個展「ダンボールの家」(ヨコハマポートサイドギャラリー)において、実物のダンボール3000個のインスタレーションと組み合わせて展示した。建築の撮影という領分を超えて、いわばミニマムな住居の部材であるダンボールを実物展示した同展には、現代の都市文明に対する危機意識や批評性が強く反映している。95年には阪神・淡路(あわじ)大震災直後の倒壊した神戸の街並を撮影。また同じ年に地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教が山梨県上九一色(かみくいしき)村(現富士河口湖町)に建設した教団施設「サティアン」を、事件の一段落した翌96年に撮影する。これらの連作にも「ダンボールの家」に共通する同時代に対する批評的関心がみられる。神戸の大震災の記録とサティアンを写した作品は、2002~03年の川崎市市民ミュージアムでの個展「AFTER1995-2002 : KOBE & SATYAN」でも展示された。
1996年建築家の磯崎新(あらた)らとベネチア・ビエンナーレ建築展の日本パビリオンに神戸の震災の記録写真を出品、グランプリにあたる金獅子賞を受賞。このほかにも90年代以降海外での企画展、個展が相次ぎ、とくに2002年ドイツ、カッセルにおける大規模な美術展ドクメンタに参加するなど、国際的な評価を確立する。98~99年には、かつての美共闘のメンバー、彦坂、堀、石内とともにグループ展「AIR」を3回連続開催。「Art in the Ruins(廃墟の中の芸術)」の略号である同展の名称は、美共闘の「文化的廃墟を創設せよ」というアジテーションに由来し、宮本たちは改めて同時代の空気(Air)に対する攪乱(かくらん)を図った。
2001年からは「ダンボールの家」とはちょうど逆に、ホームレスの住居に見立てた小屋の内壁に印画紙を貼付し、ピンホールを開けて現像・撮影し、小屋ごと展示するインスタレーションの連作を手がけている。
2002年より京都造形芸術大学教授を務める。
[倉石信乃]
『『九龍城砦』(1988・ペヨトル工房)』▽『『建築の黙示録』(1988・平凡社)』▽『『アンコール――宮本隆司写真集』(1994・リブロポート)』▽『『KOBE, 1995 After the Earthquake』(1995・建築・都市ワークショップ)』▽『『九龍城砦』(1997・平凡社)』▽『Ryuji Miyamoto (1999, Steidl, Göttingen)』