宮西村(読み)みやにしむら

日本歴史地名大系 「宮西村」の解説

宮西村
みやにしむら

[現在地名]長尾町造田宮西ぞうだみやにし

雲附くもつけ(二三九・四メートル)南麓に位置し、鴨部かべ川が南端を流れる。東は是弘これひろ村。村名は造田神社の西の意という。近世初期には造田村のうち。村高は寛政七年(一七九五)五九七石余(川田文書)以後大きな変化はない。文化二年(一八〇五)の順道帳(長尾町史)によると新開田畑は一町七反余・高一四石余。小物成は寛永一九年(一六四二)に綿九四匁(高松領小物成帳)、寛文一二年(一六七二)百姓林は一四町五反余・運上銀一九一匁余であった(「百姓林帳」長尾町役場蔵)。文化六年の宗門改帳(同役場蔵)によると人数四八一・戸数一一三。


宮西村
みやにしむら

[現在地名]能登川町新宮しんぐう 新宮西しんぐうにし

村の北西愛知えち川左岸沿いに立地する。栗見大宮くりみおおみや天神が当地に流れ着いて以来、その西に営まれた集落として村名があるという。慶長高辻帳に村名がみえ高五〇九石余。文久二年(一八六二)の上知まで彦根藩領。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数八四、男一七八・女一九六。天明四年(一七八四)いま河南かわみなみ阿弥陀堂あみだどう三村とともに愛知川筋の堤根にある新川川底が高く、船の往来に難儀するとして川浚えを出願しているが(上田文書)、この舟運は商品流通としても機能し、当村は小八幡こはちまんと称されるほど賑ったらしい。


宮西村
みやにしむら

[現在地名]播磨町宮西宮西一―三丁目

西本庄にしほんじよう村の西に位置し、西は西脇にしわき(現加古川市)慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると田方二一四石余・畑方八石余。天保郷帳では高二七六石余。宝暦一二年(一七六二)の古宮組畝高・諸運上・小物成控(大歳家文書)によれば、商船一(一五石積―一五〇石積)があり、浦方水主役二・三人、浦方水主米三石五斗。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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