改訂新版 世界大百科事典 「大江氏」の意味・わかりやすい解説
大江氏 (おおえうじ)
790年(延暦9),桓武天皇の外祖母の一族土師(はじ)氏に大枝朝臣の姓を賜ったのに始まる氏族。菅原氏と同祖である。866年(貞観8),さらに大江に改める。一方,平城天皇皇子阿保親王の後裔とする説がある。すなわち《尊卑分脈》《大江氏系図》などには,大江音人(おとんど)の父本主を阿保親王の子とする。また音人を直接阿保親王の子とする《続本朝往生伝》などもある。このことについては,年齢関係から音人は親王の孫ではありえないが,親王の実子である音人が大江本主の養子となり,大江氏を名のるようになったのか,あるいは大江氏が家系を尊くするために後世皇胤として造作したものか,いずれとも決めがたい。音人は《貞観格式》《日本文徳天皇実録》の編纂に参与するなど,文人官僚として活躍,大江氏が学問の世界において菅原氏と並ぶ地位を確立するのに大きく寄与して,江家の始祖と称される。ついでその孫の維時(これとき)・朝綱が相並んで活躍した10世紀後半には,道真の失脚によって勢力の後退した菅原氏に代わって儒家の主座の地位を占めるに至った。このころから文人社会の中でも家格の固定化が進行し,大江氏は菅原氏とともに〈重代〉と称された世襲氏族の代表として,文章博士・式部大輔などの文人学者の顕職を踏襲していく。さらに大江氏の中にあっても維時の系統が嫡流として栄え,孫匡衡(まさひら)は一条朝期に文人の第一人者として同族の以言とともに活躍した。しかしその後はしだいに文人社会にも勢力を伸張させてきた日野流藤原氏が大江氏を圧倒するようになる。そのような趨勢の中で,匡衡の曾孫匡房(まさふさ)は前期院政期における儒臣の第一人者として活躍,正二位権中納言に至り,大江氏最後の栄光を担った。その曾孫の匡範流は家学を継承し,のち北小路と称した。また匡範の兄弟に当たる広元は鎌倉幕府の政所別当として勢力を振るい,その子孫は武家として長井・毛利などの諸流に分かれた。
執筆者:後藤 昭雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報