寛永文化(読み)かんえいぶんか

百科事典マイペディア 「寛永文化」の意味・わかりやすい解説

寛永文化【かんえいぶんか】

江戸初期,寛永年間(1624年―1644年)を中心とする文化。桃山文化の特徴を受け継ぎ,元禄(げんろく)文化への過渡的役割を果たした。西は桂離宮,東は日光東照宮に特質される儒教文化だが,特に京都の後水尾(ごみずのお)・明正(めいしょう)両天皇の宮廷と上層町衆を中心とした古典的文化を特筆して言うことが多い。後水尾院に入内(じゅだい)した東福門(とうふくもん)院徳川秀忠(ひでただ)の娘和子)は戦乱に荒廃した京都の社寺など文化財の復興に尽力。宮廷出入りの芸術家の中に俵屋宗達(たわらやそうたつ)・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ),角倉素庵(すみのくらそあん)など寛永文化の代表的担い手がいた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「寛永文化」の解説

寛永文化
かんえいぶんか

江戸時代初頭,寛永年間(1624~44)に京都を中心に町衆を担い手として,朝廷公家大名の間に広がった絵画工芸・建築など各分野にわたる文化活動の総称。貴族的な文化と古典的な美の追求を特徴とする。やまと絵の装飾画に新境地を開いた俵屋宗達,洗練された蒔絵などの工芸品を残した本阿弥光悦らの作品がよく知られる。華麗な日光東照宮,簡素で気品のある桂離宮はその代表的な建築物。

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世界大百科事典(旧版)内の寛永文化の言及

【元禄時代】より

…町人と呼ばれる社会階層が文化の主体的な担い手となったこと(町人文化),上方の都市的発展とその環境が推進力となったこと(都市文化),奢侈的風潮にともない衣・食・住ほか生活の諸相に文化としての表現が認められること(生活文化),劇場や出版といったマス・メディアが成立したこと(大衆文化)などの諸傾向を指摘することができる。これらの傾向は総じて〈近世的〉といわれる特色を示しており,したがって元禄文化は,一面で17世紀前半~寛永期に頂点に達した上層町衆の文化(寛永文化)をモデルとしつつ,そこにみられた古典志向,貴族趣味,サロン性を克服し,より広範な町人層の参加のもと,18世紀以降における近世都市大衆文化の展開を用意したものと位置づけることができる。
[町人の文化]
 元禄文化の第1の特徴は,文化の荷担者が都市の商工業者,いわゆる町人層によって構成されていたことにあり,日本文化史のうえで初めて庶民と呼びうる階層の生活,心情,思想が主題として表現されるに至った。…

※「寛永文化」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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