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俵屋宗達 たわらや そうたつ

美術人名辞典の解説

俵屋宗達

江戸前期の画家。能登あるいは加賀生。名は以悦、伊年・対青軒等の印章を用いた。京都の豊宗寺に住して永徳画法・古土佐骨法を会得し、光琳派の先駆となる。烏丸光広本阿弥光悦らと交際があった。寛永20年(1643)歿と伝えられる。

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デジタル大辞泉の解説

たわらや‐そうたつ〔たはらや‐〕【俵屋宗達】

桃山から江戸初期にかけての画家。俵屋は家号。伊年・対青軒の印を用いた。宗達光琳(こうりん)派、いわゆる琳派の祖。京都の上層町衆の出身とみられ、本阿弥光悦書の和歌巻の金銀泥下絵を描き、また扇面画や色紙絵などに大和絵の伝統を新解釈した斬新(ざんしん)な装飾的画法を示し、水墨画にも新風を吹き込んだ。「風神雷神図」など屏風(びょうぶ)の大作も多い。生没年未詳。

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百科事典マイペディアの解説

俵屋宗達【たわらやそうたつ】

桃山末〜江戸初期の画家。生没年不詳。伝記はあまり知られていないが,京都の富裕な町衆に属し,〈俵屋〉を屋号とする絵屋(扇絵や巻物,色紙等を製作する工房)を主宰し,自らも描いた。
→関連項目寛永文化深江蘆舟琳派

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

俵屋宗達 たわらや-そうたつ

?-? 織豊-江戸時代前期の画家。
京都の上層町衆のひとり。烏丸(からすまる)光広や本阿弥(ほんあみ)光悦(1558-1637)らと親交があった。下絵や扇面画の作画工房「俵屋」をいとなむ。みずからも制作。金銀泥を駆使した装飾性のつよい生命感あふれる新様式の画面を創造,また水墨画にもすぐれた作品をのこす。伊年,対青,対青軒の印をもちいた。作品に「蓮池水禽図」「風神雷神図屏風」「関屋澪標(せきやみおつくし)図屏風」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

たわらやそうたつ【俵屋宗達】

桃山~江戸初期の画家。生没年不詳。琳派の創始者。使用印に〈伊年〉〈対青〉〈対青軒〉がある。京都の上層町衆出身で,唐織で名を得た織屋の蓮池氏かその別家喜多川氏の一族であったと推定される。早く〈俵屋〉を屋号とする絵屋あるいは扇屋を興して主宰したらしく,磯田道冶仮名草子《竹斎》によれば,元和年間(1615‐24)京都でその扇面画,源氏絵は非常に評判の高いものであった。すなわち弟子を使って工房制作を行い,俵屋絵として売り出したのである。

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大辞林 第三版の解説

たわらやそうたつ【俵屋宗達】

江戸初期の画家。法橋ほつきようの地位に至るがその生涯はほとんど未詳。京都の人。姓は野々村と伝える。特異な構図と技法により近世装飾画の新様式を確立、尾形光琳の先駆となった。代表作「風神雷神図屛風」「蓮池水禽図」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

俵屋宗達
たわらやそうたつ

慶長~寛永期頃 (17世紀前半) に京都で活躍した画家。宗達光琳派 (→琳派 ) の祖。京都の富裕な町衆の出身で,俵屋という屋号をもつ絵屋ないし扇屋を主宰していたとする説が有力。寛永7 (1630) 年には法橋の位にあって,宮廷の絵の御用もつとめた。本格的な画家としての活躍は寛永年間に入ってからで,この期に多くの金屏風の傑作を生んでいる。本阿弥光悦,千少庵,醍醐寺などと深い関係にあったことが知られるが,伝記はほとんど不明。金屏風のほかに,料紙装飾の金銀泥下絵 (光悦流の書が書かれている) ,扇面画,屏風張付け用の水墨画など遺品の種類は多岐にわたり,特異な画歴がうかがわれる。その芸術は,伝統的なやまと絵を独自の新しい感覚で復興させたものといえる。のちの尾形光琳にも大きな影響を与えた。主要作品『源氏物語関屋・澪標 (みおつくし) 図』 (国宝,静嘉堂文庫) ,『風神雷神図屏風』 (国宝,建仁寺) ,『舞楽図』 (醍醐寺) ,『松島図』 (フリーア美術館) ,『四季草花図』 (光悦書,畠山記念館) ,『蓮池水禽図』 (国宝,京都国立博物館) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

俵屋宗達
たわらやそうたつ

生没年不詳。桃山から江戸初期の画家。出身・伝記はつまびらかでないが、およそ1600年(慶長5)ごろから1630年代にかけての活躍がうかがえる。一時「伊年(いねん)」印を用い、晩年は「対青」または「対青軒」印をもっぱらとした。京都の上層町衆(まちしゅう)の1人と思われ、公卿烏丸光広(くぎょうからすまみつひろ)や茶人千少庵(せんのしょうあん)、書・陶芸・漆芸家として名高い本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)らとの親密な交際が推定される。画業は、初め下絵や扇面画などの工芸的な仕事を主とした作画工房の絵屋(屋号「俵屋」)の主宰者であったと考えられる。1602年(慶長7)に一部修復された『平家納経』(国宝、広島・厳島(いつくしま)神社)の表紙・見返しの装飾は彼の早い時期の仕事とみられ、また15年(元和1)ごろまでは光悦書の色紙や和歌巻に金銀泥(きんぎんでい)の下絵を多く描いている。いずれも大柄の図様に金銀泥を駆使し、料紙装飾として画期的なものであるが、これらのうち『四季草花図和歌巻』(重文、東京・畠山(はたけやま)記念館)などには「伊年」の円印が押され、一時期この印を用いたことがわかる。一方、同印を押した類品はほかにも多種あり、宗達自身を含めたグループの印と解される。21年に再建された京都・養源院には松図襖(ふすま)、異獣図杉戸(ともに重文)の大作を制作し、30年(寛永7)には後水尾(ごみずのお)上皇の命により三双の金屏風(きんびょうぶ)を描き、また同年には宮中の『西行(さいぎょう)物語絵巻』を模写し、その奥書から当時すでに画家として高い地位の法橋(ほっきょう)であったことがわかる。法橋時代の宗達は屏風絵の制作に心血を注ぎ、『風神雷神図』(国宝、京都・建仁寺)をはじめ、『松島図』(ワシントン、フリーア美術館)、『関屋澪標(せきやみおつくし)図』(国宝、東京・静嘉堂(せいかどう))、『舞楽図』(重文、京都・醍醐(だいご)寺)などの傑作を残している。いずれも大胆な構図と金地に鮮麗な彩色を生かし、桃山障屏画(しょうへいが)にかわる新しい装飾画様式の確立が認められる。一方、水墨画は墨調の微妙な変化を尊んだ温雅な画風をもって、漢画のそれとは異なる日本的な墨画の世界を開いた。「伊年」印の『蓮池水禽(れんちすいきん)図』(国宝、京都国立博物館)や、『芦鴨図衝立(あしかもずついたて)』(重文、京都・醍醐寺)、『牛図』(重文、京都・頂妙寺)など優れた作品が少なくない。
 町絵師としての自由な立場は、既成流派の形式にとらわれることなく、生き生きとした斬新(ざんしん)でユニークな造形を生み、色紙、巻子(かんす)(巻物)、扇面、障屏と各種の画面形式に応じた独特の構図と意匠をつくりだしている。また技法的にも「たらし込み」の手法を創案して滲(にじ)みをもった色面の多彩な変化によって新しい質感の表現を可能にした。画題のうえでは自然の花鳥、草花を描く一方、古典を顧みて物語絵に題材を求め、とくに古い絵巻などから図様を取り出して、自らの絵に蘇生(そせい)させる例はしばしばみられる。その画風も基本的には大和(やまと)絵の伝統に強く根ざすものであり、近世初期における大和絵の復興者としての名声が高い。
 なお、宗達の周辺や後継には「伊年」印を用いた画風の追随者が多く輩出し、また江戸中期の尾形光琳(こうりん)は彼の芸術に深く傾倒してその様式を大成させている。宗達が創始し、光琳によって新展開されたこの装飾画の流れは一般に琳派または宗達光琳派とよばれ、江戸時代を通じて繁栄をみた。[村重 寧]
『橋本綾子・源豊宗執筆『日本美術絵画全集14 俵屋宗達』(1976・集英社) ▽山根有三著『日本の美術18 宗達と光琳』(1970・小学館) ▽水尾比呂志著『日本の美術18 宗達と光琳』(1980・平凡社) ▽仲町啓子著『名宝日本の美術19 光悦・宗達』(1983・小学館)』

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世界大百科事典内の俵屋宗達の言及

【琳派】より

…桃山時代後期に興り,近代まで続いた造形芸術上の流派。宗達光琳派とも呼ばれ,本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し,尾形光琳・乾山兄弟によって発展,酒井抱一,鈴木其一(きいつ)が江戸の地に定着させた。その特質として(1)基盤としてのやまと絵の伝統,(2)豊饒な装飾性,(3)絵画を中心として書や諸工芸をも包括する総合性,(4)家系による継承ではなく私淑による断続的継承,などの点が挙げられる。…

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