生没年不詳。桃山から江戸初期の画家。出身・伝記はつまびらかでないが、およそ1600年(慶長5)ごろから1630年代にかけての活躍がうかがえる。一時「伊年(いねん)」印を用い、晩年は「対青」または「対青軒」印をもっぱらとした。京都の上層町衆(まちしゅう)の1人と思われ、公卿烏丸光広(くぎょうからすまみつひろ)や茶人千少庵(せんのしょうあん)、書・陶芸・漆芸家として名高い本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)らとの親密な交際が推定される。画業は、初め下絵や扇面画などの工芸的な仕事を主とした作画工房の絵屋(屋号「俵屋」)の主宰者であったと考えられる。1602年(慶長7)に一部修復された『平家納経』(国宝、広島・厳島(いつくしま)神社)の表紙・見返しの装飾は彼の早い時期の仕事とみられ、また15年(元和1)ごろまでは光悦書の色紙や和歌巻に金銀泥(きんぎんでい)の下絵を多く描いている。いずれも大柄の図様に金銀泥を駆使し、料紙装飾として画期的なものであるが、これらのうち『四季草花図和歌巻』(重文、東京・畠山(はたけやま)記念館)などには「伊年」の円印が押され、一時期この印を用いたことがわかる。一方、同印を押した類品はほかにも多種あり、宗達自身を含めたグループの印と解される。21年に再建された京都・養源院には松図襖(ふすま)、異獣図杉戸(ともに重文)の大作を制作し、30年(寛永7)には後水尾(ごみずのお)上皇の命により三双の金屏風(きんびょうぶ)を描き、また同年には宮中の『西行(さいぎょう)物語絵巻』を模写し、その奥書から当時すでに画家として高い地位の法橋(ほっきょう)であったことがわかる。法橋時代の宗達は屏風絵の制作に心血を注ぎ、『風神雷神図』(国宝、京都・建仁寺)をはじめ、『松島図』(ワシントン、フリーア美術館)、『関屋澪標(せきやみおつくし)図』(国宝、東京・静嘉堂(せいかどう))、『舞楽図』(重文、京都・醍醐(だいご)寺)などの傑作を残している。いずれも大胆な構図と金地に鮮麗な彩色を生かし、桃山障屏画(しょうへいが)にかわる新しい装飾画様式の確立が認められる。一方、水墨画は墨調の微妙な変化を尊んだ温雅な画風をもって、漢画のそれとは異なる日本的な墨画の世界を開いた。「伊年」印の『蓮池水禽(れんちすいきん)図』(国宝、京都国立博物館)や、『芦鴨図衝立(あしかもずついたて)』(重文、京都・醍醐寺)、『牛図』(重文、京都・頂妙寺)など優れた作品が少なくない。
町絵師としての自由な立場は、既成流派の形式にとらわれることなく、生き生きとした斬新(ざんしん)でユニークな造形を生み、色紙、巻子(かんす)(巻物)、扇面、障屏と各種の画面形式に応じた独特の構図と意匠をつくりだしている。また技法的にも「たらし込み」の手法を創案して滲(にじ)みをもった色面の多彩な変化によって新しい質感の表現を可能にした。画題のうえでは自然の花鳥、草花を描く一方、古典を顧みて物語絵に題材を求め、とくに古い絵巻などから図様を取り出して、自らの絵に蘇生(そせい)させる例はしばしばみられる。その画風も基本的には大和(やまと)絵の伝統に強く根ざすものであり、近世初期における大和絵の復興者としての名声が高い。
なお、宗達の周辺や後継には「伊年」印を用いた画風の追随者が多く輩出し、また江戸中期の尾形光琳(こうりん)は彼の芸術に深く傾倒してその様式を大成させている。宗達が創始し、光琳によって新展開されたこの装飾画の流れは一般に琳派または宗達光琳派とよばれ、江戸時代を通じて繁栄をみた。
[村重 寧]
『橋本綾子・源豊宗執筆『日本美術絵画全集14 俵屋宗達』(1976・集英社)』▽『山根有三著『日本の美術18 宗達と光琳』(1970・小学館)』▽『水尾比呂志著『日本の美術18 宗達と光琳』(1980・平凡社)』▽『仲町啓子著『名宝日本の美術19 光悦・宗達』(1983・小学館)』
桃山~江戸初期の画家。生没年不詳。琳派の創始者。使用印に〈伊年〉〈対青〉〈対青軒〉がある。京都の上層町衆出身で,唐織で名を得た織屋の蓮池氏かその別家喜多川氏の一族であったと推定される。早く〈俵屋〉を屋号とする絵屋あるいは扇屋を興して主宰したらしく,磯田道冶の仮名草子《竹斎》によれば,元和年間(1615-24)京都でその扇面画,源氏絵は非常に評判の高いものであった。すなわち弟子を使って工房制作を行い,俵屋絵として売り出したのである。出自を生かして千少庵,烏丸光広,本阿弥光悦など当時一流の文化人,公卿と親交を結んだことが,その画風形成上にすぐれた影響をもたらした。特に光悦との協力関係は重要で,光悦が版行した嵯峨本において,木版雲母摺(きらずり)下絵の意匠を担当したのは宗達であった。妻は光悦の従姉妹であったとも伝えられる。さらに禁裏とも関係を深め,1616年後水尾天皇は狩野興以に参考として俵屋絵を見せ(《中院通村日記》),30年(寛永7)には同院から金碧楊梅図を含む屛風絵3双を依頼された。同年光広の紹介により禁裏所蔵の《西行物語絵巻》を模写(旧毛利家蔵)したが,このときすでに法橋であったことが,光広の奥書によりわかる。工房俵屋の主宰者から一人の画家へと個性を明確にしていったのである。また醍醐寺とも特別な関係をもったらしい。彼を継いだ宗雪は42年すでに法橋位にあるので,このころまでに没していたと推定されている。43年に没したとする説があるが確証はない。
制作年代の最もさかのぼる作品は,1602年(慶長7)福島正則が願主となって修理した厳島神社所蔵《平家納経》の願文,化城喩品,嘱累品における金銀泥による表紙および見返し絵である。これと同工の金銀泥絵の優品に数種の光悦筆和歌巻がある。蓮,鹿,竹,梅,蔦,鶴,四季草花などを下絵とする諸作で,金銀泥を華やかな広い面として使うことにより,意匠的かつ絵画的な新しい料紙装飾の創出に成功した。金銀泥絵と近い関係にある水墨画においても,《蓮池水禽図》(京都国立博物館),《蘆雁図衝立》(醍醐寺),《雲竜図屛風》(フリア美術館),《牛図》双幅(頂妙寺)などの傑作をのこした。それらは,没骨(もつこつ)の描法による対象の的確な把握,情感と量感の表現にすぐれ,牧谿に私淑した相阿弥,長谷川等伯の傾向におおらかさを加えて,日本独自の水墨画を確立したといえよう。《竹斎》にも言及される扇面画では,醍醐寺三宝院所蔵の貼交屛風が名高い。湾曲する画面形式を積極的に生かして新生面をひらいている。元和末年以降障屛画に主力を注ぐようになり,1621年徳川秀忠夫人が父浅井長政のために再建した養源院本堂に《松に岩図襖》《異獣図杉戸》を揮毫した。また《松島図屛風》(フリア美術館),《槙檜図屛風》(山川美術財団),《関屋澪標図屛風》(静嘉堂文庫),《舞楽図屛風》(醍醐寺三宝院),《風神雷神図屛風》(建仁寺)など,日本絵画史上にそびえ立つ名作を次々と世に送った。法橋叙任後描かれたこれらの屛風において,ある場合には中世やまと絵の図様を直接利用しつつ,視覚的効果とおおらかな装飾性によって,やまと絵屛風の近世的復興を成し遂げている。以上挙げた諸作品は宗達その人の作品と考えられるものだが,このほか工房作品が数多く伝えられており,宗達作品群が形成されている。
→琳派
執筆者:河野 元昭
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生没年不詳。17世紀前半に京都で活躍した画家。琳派の創始者。号は伊年・対青軒(たいせいけん)など。「俵屋」という名の絵屋を営み,扇面・色紙・短冊をはじめ,襖絵や屏風などの需要にも応じた。本阿弥光悦の書の下絵として描いた金銀泥絵(でいえ)や水墨画で名をあげ,1630年(寛永7)にはすでに法橋の位にあった。後水尾(ごみずのお)上皇の依頼をうけるなど,朝廷や公家にも広く知られた。作風は古代・中世のやまと絵に学びながら,対象を明快な色や形で大きくとらえたものが多い。代表作「風神雷神図屏風」(国宝),「松図襖」(重文),「四季草花下絵和歌巻」。
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…桃山時代後期に興り,近代まで続いた造形芸術上の流派。宗達光琳派とも呼ばれ,本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し,尾形光琳・乾山兄弟によって発展,酒井抱一,鈴木其一(きいつ)が江戸の地に定着させた。その特質として(1)基盤としてのやまと絵の伝統,(2)豊饒な装飾性,(3)絵画を中心として書や諸工芸をも包括する総合性,(4)家系による継承ではなく私淑による断続的継承,などの点が挙げられる。…
※「俵屋宗達」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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