桂宮(八条宮)家の別荘で、明治一六年(一八八三)離宮となる。桂川中流域右岸にあり、一万三千坪。一時、豊臣秀吉の養子にもなった正親町天皇の嫡孫胡佐麿王子に八条宮家が新たに創立され、八条宮智仁親王と称せられた。智仁親王は、
とあり、近衛信尋(陽明殿)を迎えようとしている。「瓜畑のかろき茶屋」がさきの桂茶屋であろう。
寛永元年(一六二四)六月には相国寺塔頭鹿苑院主の叔顕が「鹿苑日録」に「赴桂八条親王別墅、庭中築山鑿池、々中有船、有橋、有亭、々上見四面山、天下之絶景也、及暮而帰矣」と記し、庭園はほぼ完成、古書院・中書院など主要な殿舎も出来上っていたと推定される。この翌年、南禅寺の長老金地院崇伝が招待されて「桂亭記」に「今際聖代、課万夫天百工、引流為山、構華殿、築玉楼」と記している。
離宮の作者を八条宮家後代の記録「桂御別業之記」は、
と小堀政一(遠州)にあてる。しかし、八条宮文書等宮家の古い記録中に小堀の名が見当たらず、小堀側の史料にも所見がなく、更に秀吉の死去当時、遠州はわずか二十歳であること等を勘案すれば、後世の付会といってよい。ただ遠州と八条宮家は、茶の湯や茶器について交流があったらしい。また智仁親王妃の常照院が遠州の義弟中沼左京にあてた書状中に、八条宮家の造作と普請のことがみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市西京区桂御園(かつらみその)にあり、日本的な建築と庭園の独自の美しさで知られる。現在は宮内庁の所管。
[工藤圭章]
京都の南西部、桂川の西岸にあり、かつては下桂(しもかつら)村とよばれていたこの付近一帯は、平安時代以来公家(くげ)の逍遙(しょうよう)の地であり、藤原道長の別業、桂山庄(さんしょう)も営まれていた。この地はその後長く近衛(このえ)家に伝領されたが、1615年(元和1)ごろから八条宮(はちじょうのみや)家の所領に改められている。八条宮家の創設者の智仁(としひと)親王(1579―1629)は風流を好み、平安貴族の桂での雅趣豊かな故事を回想し、ここに別業として「瓜(うり)畑のかろき茶屋」を建てられている。これが桂離宮の始まりで、この茶屋は現在の古書院(こしょいん)にかつての姿をとどめている。1641年(寛永18)ごろに宮家を継いだ智忠(としただ)親王(1619―1662)は古書院の一部を改築して中書院(ちゅうしょいん)を増築し、さらに1663年(寛文3)の後水尾(ごみずのお)上皇の桂御幸(ごこう)のために、楽器の間や新御殿を増築している。現状の古書院、中書院、楽器の間、新御殿と雁行(がんこう)する書院群はこのとき以来のもので、裏側の旧役所は中書院造営時に、また臣下控所は新御殿造営時に建設されている。ただし、現在の臣下控所は明治に旧規に倣って新造されたもの。八条宮家は嗣子(しし)に恵まれず、時の上皇あるいは天皇の皇子が宮家を継がれ、宮号も常磐井宮(ときわいのみや)、京極宮(きょうごくのみや)、桂宮と変えられている。しかし、桂宮も1881年(明治14)淑子(すみこ)内親王が亡くなられてから断絶し、本邸の今出川第(いまでがわてい)は二条城本丸に移築され、桂別業も1883年宮内省(現、宮内庁)に移管されて桂離宮と名づけられた。桂離宮は明治20年代から30年代にかけて全面的に修理されたが、1955年(昭和30)以降の桂川の改修に関連して地盤が緩み、書院群もふたたび修理が必要となったので、1976年4月から1982年3月までいわゆる昭和の大修理が行われ、昔日の姿に復されている。
[工藤圭章]
桂離宮の敷地は約7万平方メートル。周囲は竹藪(たけやぶ)や雑木林で囲まれている。中央の庭には大小三つの中島のある池があり、汀(みぎわ)はそれぞれ入り組んで趣(おもむき)を変え、池の西には古書院をはじめとする書院群が雁行(がんこう)して配置されている。池の周辺には回遊路が巡らされ、茶屋が所々に建てられている。北の御幸門(みゆきもん)から書院群に至る御幸道をたどり、途中左折すると回遊路に入る。紅葉(もみじ)山、蘇鉄(そてつ)山を過ぎると御腰掛(おこしかけ)があり、この前面の石の延段(のべだん)は行(ぎょう)の飛石(とびいし)の異名がある。ついで鼓(つづみ)の滝を過ぎると、岬灯籠(みさきとうろう)のある洲浜(すはま)と天橋立(あまのはしだて)が見え、そのかなたに白川石の石橋と松琴亭(しょうきんてい)を望む。松琴亭にはくど構(かまえ)が土庇(どひさし)にあり、市松模様の襖(ふすま)や石炉(せきろ)がよく知られている。松琴亭の東の山の木立の中には、卍亭(まんじてい)とよばれる四ツ腰掛がある。
松琴亭から蛍谷(ほたるだに)を経ると峠道になり、あたかも深山に遊ぶ感がある。頂上には峠の茶屋の賞花亭(しょうかてい)が建ち、掛けるのれんにちなんで竜田(たつた)屋の別称がある。峠を下れば八条宮家代々の位牌(いはい)を祀(まつ)る本瓦葺(ほんかわらぶ)きの園林堂(おんりんどう)がある。火灯窓(かとうまど)をつけ、いかにも仏堂らしい外観をみせる。園林堂の正面からは一路梅の馬場へと至るが、その途中を左折すると笑意軒(しょういけん)があり、この建物では円形の下地窓、ビロードの腰貼(こしば)りが雅趣を誘う。梅の馬場から新御殿前に開ける広場は蹴鞠(けまり)が行われたという。飛石は古書院と楽器の間の両者へと並べられ、広場の砌(みきり)をも兼ねる。古書院北方の丘には月波楼(げっぱろう)が建つが、ここでは開放的な室内や綟(もじ)り織(からみ織)の布を張った中抜きの障子などが印象に残る。月波楼の丘を降りると、古書院の御輿寄(おこしよせ)前の中門に至る。中門から御輿寄へと続く石敷は真(しん)の飛石の名で有名である。
桂離宮の庭園は回遊路の随所に石灯籠や手水鉢(ちょうずばち)が置かれていて目を楽しませる。池や築山(つきやま)などの配置は、巡り歩くにしたがってさまざまな風景が眺められることを考慮したもので、智仁親王の作庭の巧みさを示している。
[工藤圭章]
書院群は数寄屋(すきや)風の手法が用いられている。古書院は6室からなり、北に縁座敷(えんざしき)と御輿寄がつく。古書院一の間、二の間の東は榑板(くれいた)敷の広縁(ひろえん)で、その前に竹を敷き詰めた月見(つきみ)台が設けられている。池に面した東面の入母屋(いりもや)の妻の懸魚(げぎょ)には金箔(きんぱく)の押された六葉(ろくよう)がつき、華やかさをみせる。古書院は土壇上に建ち、縁の腰下は土壇を隠すように白壁がつけられるが、中書院や新御殿は縁下を高床(たかゆか)らしく吹き放し、軽快さを表している。
中書院は田の字形の4室からなり、一の間、二の間、三の間は鍵(かぎ)座敷風に並び、襖絵(ふすまえ)は探幽(たんゆう)、尚信(なおのぶ)、安信(やすのぶ)の狩野(かのう)三兄弟がそれぞれ担当したという。瓜畑のかろき茶屋として古書院が建てられていたときは、古書院は客室でもあり、また居室でもあった。しかし、中書院が増築されてからは、ここが御座間(ござのま)、すなわち親王の居室となり、古書院は接客の場にあてられたようである。中書院二の間には蚊帳(かや)の吊手(つりて)が柱にあって、寝室として利用されたことがわかる。
新御殿は御殿の名が残るように、上皇の御幸御殿であった。新御殿では一の間の上段や桂棚(かつらだな)の意匠がすばらしい。また御寝間(ぎょしんのま)の御剣棚(ぎょけんだな)、御化粧間(おけしょうのま)の裏桂棚(うらかつらだな)など、粋を凝らしていて、優れた空間構成をみせる。付属の御手水間(おちょうずのま)、御厠(おかわや)、御湯殿(おゆどの)など生活に密接する部分の保存もよい。古書院、中書院、新御殿の各書院は、それぞれ襖が大桐(おおぎり)紋の唐紙(からかみ)、墨絵、小桐紋の唐紙と趣向を変え、欄間(らんま)も筬(おさ)欄間、木瓜形(もっこうがた)欄間、月字崩(つきのじくず)し欄間と違えている。長押(なげし)が用いられるのは新御殿だけであり、それぞれ独特のたたずまいを示している。
また桂離宮では、面皮(めんかわ)柱などの心持(しんもち)材はひび割れを防ぐための背割(せわり)がすでに行われており、見えがかりの柱や鴨居(かもい)などは、黒褐色の色付けが組立て前に施されているなど、建築技法でも注目すべき点が多く認められている。
[工藤圭章]
『森蘊著『改訂 桂離宮』(1956・創元社)』▽『和辻哲郎著『桂離宮』(1958・中央公論社)』▽『川上貢・中村昌生著『原色日本の美術15 桂離宮と茶室』(1967・小学館)』▽『斎藤英俊著『名宝日本の美術21 桂離宮』(1982・小学館)』
江戸時代初期に八条(桂)宮智仁(としひと)親王,智忠(としただ)親王父子が,所領であった現在の京都市西京区桂御園の地に造営した別荘建築。古書院,中書院,新御殿の3棟の数寄屋(すきや)造の書院,《源氏物語》になぞらえた回遊式の庭園,月波楼,松琴亭,笑意軒などの茶室がほぼ完成されたときの形のまま残る。日本近世の建築文化を代表する作品の一つであり,ドイツの建築家ブルーノ・タウトが簡素で機能的な建築美を絶賛したこともあって,世界的に有名になった。現在は離宮として宮内庁が管理し,1976-82年にかけて御殿の解体修理が行われた。
桂川の西岸にあり,約7万m2の広さがある。竹垣に囲まれた邸内の東部中央には桂川の水を引き込んだ大きな池がある。池には数個の中島や入江が設けられ,南東から北側にかけて築山が築かれている。西側の平坦な敷地に,古書院,中書院,新御殿の3棟の書院が,北から南へ,順に後退する形で雁行して並ぶ。古書院は池に面して建つ質素な造りの数寄屋で,柱は杉の面皮柱を使い,室内には長押(なげし)も打たれていない。とくに東側の広縁から池に向かって突出した竹床の月見台が有名である。中書院は古書院を補完する目的で造られた建物で,古書院同様に質素な数寄屋造の建物である。その南に楽器の間を隔てて連続する新御殿は,後水尾上皇の御幸に備えて建てられたものといわれ,同じ数寄屋造の建物でも,長押を打ち,畳廊を設けるなど,ぜいたくな造りになっている。上段にある違棚は唐木(からき)(輸入材)を使い意匠をこらしたもので,桂棚と呼ばれている。また,襖(ふすま)の引手金物や長押の釘隠など細かいところまで心を配った計画がなされている。また,中書院から新御殿へ続く直截的な外部の意匠も評価が高い。
書院群の東に広がる庭園は平安時代以来の貴族の趣味に合わせ,桜,ツツジ,萩,紅葉などの草木や観月を楽しむよう,池庭を築山が囲む回遊式の庭園になっている。池畔には石組みの岬や州浜,庭橋が設けられ,中島を天橋立に見立てるなど,風景にも心が配られている。庭の各所には月波楼,外腰掛,松琴亭,賞花亭,園林堂,笑意軒などの趣を変えた茶屋などが建つ。これらの建物を結ぶ苑路は畳石,延段,飛石を巧みに使い,多くの石灯籠や蹲踞(つくばい)を配し,さまざまな樹木や刈込み,あるいは瓦塀などを用いて,あるところでは見通しを妨げ,あるところでは眺望を開かせるなど,変化に富んだ茶庭の構成になっている。このように,全体の地割りや細部の意匠に日本庭園の持つさまざまな要素を取り入れ,庭園と建築をみごとに調和させたのみならず,宮家の別荘として機能的な使い勝手の面でも抜群のものがある。
桂離宮の敷地は平安時代には藤原道長の別荘のあった土地であり,近衛家領を経てこの由緒ある地が八条宮家の所領になったのは1615年(元和1)ころと考えられている。智仁親王はこの地に別荘の建設を思い立ち,古書院を中心にする一郭を造営したが,その内容は〈仮の庵〉程度のものであったと考えられる。離宮の本格的造営は2代智忠親王の時代で,1641-51年(寛永18-慶安4)ころに中書院が建てられ,庭園もほぼ現在見られる形になった。ついで63年(寛文3)後水尾上皇の御幸のため新御殿が造営された。なお,新御殿の天井板と荒床の一部には,他の御殿の材料が転用されている。その後,裏側にあった台所や御局向御中二階などが廃されたり,改装されたりしたが,主要な殿舎はあまり変わることなく,現在まで続いている。
執筆者:鈴木 充
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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1615年(元和元)頃,八条宮(のち桂宮)初代智仁(としひと)親王が京都下桂(しもかつら)の里(現,京都市西京区)に草創した別荘。桂宮家が絶家して,1883年(明治16)離宮に定められる。桂川から水を引きいれた苑池を中心に,数寄屋造を基調とした古書院・中書院・楽器の間・新御殿からなる御殿群と,月波楼・松琴(しょうきん)亭・笑意軒・賞花亭の四つの茶屋,外腰掛・卍(まんじ)亭の二つの腰掛,持仏堂である園林(おんりん)堂が庭間に点在する。1976年(昭和51)から6年をかけた昭和の大修理により,御殿群は3期にわたる増築によったことが判明。第1期は草創期の1615年頃まず古書院が建てられ,24年(寛永元)までには一応の完成をみたのであろう。41年,智忠(としただ)親王が増築整備を行い,第2期の中書院が建増しされた。月波楼には52年(承応元),笑意軒には55年(明暦元)の襖の下張りの反故(ほご)が使われており,現存する茶屋は,63年(寛文3)の2度におよぶ後水尾(ごみずのお)上皇の行幸に先立ち,第3期工事として楽器の間・新御殿が増築された62年頃までに苑内に整えられたものであろう。広大な回遊式庭園には「源氏物語」の情景が断続的にはめこまれている。現在は離宮として宮内庁が管理。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
(2018-8-2)
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
…棚板はケヤキ材が普通で,ときには種類の違った銘木からつくり,その材質の変化と組合せに技巧を凝らしたものがある。桂離宮の桂棚はその好例である。【川上 貢】。…
…ここに寝殿造風な庭園の伝統や書院庭の石組みの流れと触れあう面があった。この合流点に立った人物は小堀遠州であり,庭園としては桂離宮の庭園(図5)が現存する。 織部や遠州の茶は,利休の茶にくらべると作意が強いといわれる。…
※「桂離宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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