日本大百科全書(ニッポニカ)「桂離宮」の解説
桂離宮
かつらりきゅう
京都市西京区桂御園(かつらみその)にあり、日本的な建築と庭園の独自の美しさで知られる。現在は宮内庁の所管。
[工藤圭章]
沿革
京都の南西部、桂川の西岸にあり、かつては下桂(しもかつら)村とよばれていたこの付近一帯は、平安時代以来公家(くげ)の逍遙(しょうよう)の地であり、藤原道長の別業、桂山庄(さんしょう)も営まれていた。この地はその後長く近衛(このえ)家に伝領されたが、1615年(元和1)ごろから八条宮(はちじょうのみや)家の所領に改められている。八条宮家の創設者の智仁(としひと)親王(1579―1629)は風流を好み、平安貴族の桂での雅趣豊かな故事を回想し、ここに別業として「瓜(うり)畑のかろき茶屋」を建てられている。これが桂離宮の始まりで、この茶屋は現在の古書院(こしょいん)にかつての姿をとどめている。1641年(寛永18)ごろに宮家を継いだ智忠(としただ)親王(1619―1662)は古書院の一部を改築して中書院(ちゅうしょいん)を増築し、さらに1663年(寛文3)の後水尾(ごみずのお)上皇の桂御幸(ごこう)のために、楽器の間や新御殿を増築している。現状の古書院、中書院、楽器の間、新御殿と雁行(がんこう)する書院群はこのとき以来のもので、裏側の旧役所は中書院造営時に、また臣下控所は新御殿造営時に建設されている。ただし、現在の臣下控所は明治に旧規に倣って新造されたもの。八条宮家は嗣子(しし)に恵まれず、時の上皇あるいは天皇の皇子が宮家を継がれ、宮号も常磐井宮(ときわいのみや)、京極宮(きょうごくのみや)、桂宮と変えられている。しかし、桂宮も1881年(明治14)淑子(すみこ)内親王が亡くなられてから断絶し、本邸の今出川第(いまでがわてい)は二条城本丸に移築され、桂別業も1883年宮内省(現、宮内庁)に移管されて桂離宮と名づけられた。桂離宮は明治20年代から30年代にかけて全面的に修理されたが、1955年(昭和30)以降の桂川の改修に関連して地盤が緩み、書院群もふたたび修理が必要となったので、1976年4月から1982年3月までいわゆる昭和の大修理が行われ、昔日の姿に復されている。
[工藤圭章]
庭園とお茶屋
桂離宮の敷地は約7万平方メートル。周囲は竹藪(たけやぶ)や雑木林で囲まれている。中央の庭には大小三つの中島のある池があり、汀(みぎわ)はそれぞれ入り組んで趣(おもむき)を変え、池の西には古書院をはじめとする書院群が雁行(がんこう)して配置されている。池の周辺には回遊路が巡らされ、茶屋が所々に建てられている。北の御幸門(みゆきもん)から書院群に至る御幸道をたどり、途中左折すると回遊路に入る。紅葉(もみじ)山、蘇鉄(そてつ)山を過ぎると御腰掛(おこしかけ)があり、この前面の石の延段(のべだん)は行(ぎょう)の飛石(とびいし)の異名がある。ついで鼓(つづみ)の滝を過ぎると、岬灯籠(みさきとうろう)のある洲浜(すはま)と天橋立(あまのはしだて)が見え、そのかなたに白川石の石橋と松琴亭(しょうきんてい)を望む。松琴亭にはくど構(かまえ)が土庇(どひさし)にあり、市松模様の襖(ふすま)や石炉(せきろ)がよく知られている。松琴亭の東の山の木立の中には、卍亭(まんじてい)とよばれる四ツ腰掛がある。
松琴亭から蛍谷(ほたるだに)を経ると峠道になり、あたかも深山に遊ぶ感がある。頂上には峠の茶屋の賞花亭(しょうかてい)が建ち、掛けるのれんにちなんで竜田(たつた)屋の別称がある。峠を下れば八条宮家代々の位牌(いはい)を祀(まつ)る本瓦葺(ほんかわらぶ)きの園林堂(おんりんどう)がある。火灯窓(かとうまど)をつけ、いかにも仏堂らしい外観をみせる。園林堂の正面からは一路梅の馬場へと至るが、その途中を左折すると笑意軒(しょういけん)があり、この建物では円形の下地窓、ビロードの腰貼(こしば)りが雅趣を誘う。梅の馬場から新御殿前に開ける広場は蹴鞠(けまり)が行われたという。飛石は古書院と楽器の間の両者へと並べられ、広場の砌(みきり)をも兼ねる。古書院北方の丘には月波楼(げっぱろう)が建つが、ここでは開放的な室内や綟(もじ)り織(からみ織)の布を張った中抜きの障子などが印象に残る。月波楼の丘を降りると、古書院の御輿寄(おこしよせ)前の中門に至る。中門から御輿寄へと続く石敷は真(しん)の飛石の名で有名である。
桂離宮の庭園は回遊路の随所に石灯籠や手水鉢(ちょうずばち)が置かれていて目を楽しませる。池や築山(つきやま)などの配置は、巡り歩くにしたがってさまざまな風景が眺められることを考慮したもので、智仁親王の作庭の巧みさを示している。
[工藤圭章]
書院
書院群は数寄屋(すきや)風の手法が用いられている。古書院は6室からなり、北に縁座敷(えんざしき)と御輿寄がつく。古書院一の間、二の間の東は榑板(くれいた)敷の広縁(ひろえん)で、その前に竹を敷き詰めた月見(つきみ)台が設けられている。池に面した東面の入母屋(いりもや)の妻の懸魚(げぎょ)には金箔(きんぱく)の押された六葉(ろくよう)がつき、華やかさをみせる。古書院は土壇上に建ち、縁の腰下は土壇を隠すように白壁がつけられるが、中書院や新御殿は縁下を高床(たかゆか)らしく吹き放し、軽快さを表している。
中書院は田の字形の4室からなり、一の間、二の間、三の間は鍵(かぎ)座敷風に並び、襖絵(ふすまえ)は探幽(たんゆう)、尚信(なおのぶ)、安信(やすのぶ)の狩野(かのう)三兄弟がそれぞれ担当したという。瓜畑のかろき茶屋として古書院が建てられていたときは、古書院は客室でもあり、また居室でもあった。しかし、中書院が増築されてからは、ここが御座間(ござのま)、すなわち親王の居室となり、古書院は接客の場にあてられたようである。中書院二の間には蚊帳(かや)の吊手(つりて)が柱にあって、寝室として利用されたことがわかる。
新御殿は御殿の名が残るように、上皇の御幸御殿であった。新御殿では一の間の上段や桂棚(かつらだな)の意匠がすばらしい。また御寝間(ぎょしんのま)の御剣棚(ぎょけんだな)、御化粧間(おけしょうのま)の裏桂棚(うらかつらだな)など、粋を凝らしていて、優れた空間構成をみせる。付属の御手水間(おちょうずのま)、御厠(おかわや)、御湯殿(おゆどの)など生活に密接する部分の保存もよい。古書院、中書院、新御殿の各書院は、それぞれ襖が大桐(おおぎり)紋の唐紙(からかみ)、墨絵、小桐紋の唐紙と趣向を変え、欄間(らんま)も筬(おさ)欄間、木瓜形(もっこうがた)欄間、月字崩(つきのじくず)し欄間と違えている。長押(なげし)が用いられるのは新御殿だけであり、それぞれ独特のたたずまいを示している。
また桂離宮では、面皮(めんかわ)柱などの心持(しんもち)材はひび割れを防ぐための背割(せわり)がすでに行われており、見えがかりの柱や鴨居(かもい)などは、黒褐色の色付けが組立て前に施されているなど、建築技法でも注目すべき点が多く認められている。
[工藤圭章]
『森蘊著『改訂 桂離宮』(1956・創元社)』▽『和辻哲郎著『桂離宮』(1958・中央公論社)』▽『川上貢・中村昌生著『原色日本の美術15 桂離宮と茶室』(1967・小学館)』▽『斎藤英俊著『名宝日本の美術21 桂離宮』(1982・小学館)』