元和二年(一六一六)四月一七日徳川家康が死去すると、「御体をば久能へ納、御葬礼をば増上寺にて申付、御位牌をば三川の大樹寺に立、一周忌も過候て以後、日光山に小キ堂をたて勧請し候へ」(「崇伝書状」本光国師日記)という遺言に基づき、その夜のうちに遺骸は
創建時の社殿は本殿・拝殿・瑞垣・回廊・楼門・本地堂・鳥居・御供所・厩・仮殿・同拝殿など。元和五年中井正清死亡後は大工頭鈴木近江長次が工事を担当して鐘楼・水盤舎・三神庫・経蔵などが造営され、さらに同八年奥院木造宝塔・同唐門・同拝殿などが完成した(「中井正清書状案」中井忠重文書など)。その間元和四年に黒田長政より石鳥居、鍋島勝茂より水盤が寄進されている。三代将軍家光は寛永一三年(一六三六)が家康の二十一回忌にあたることから、また伊勢神宮の式年遷宮に倣って(「日光山御神事記」国立公文書館蔵)、ほとんどの社殿を造替した。着工は同一一年一一月一七日(日光山旧記)、上棟は同一三年四月八日(「日光御宮造営之記」甲良家文書ほか)、同一〇日には正遷宮が行われており、その間わずか一年五ヵ月。総工費金五六万八千両・銀一〇〇貫目・米一千石、工人延べ四五三万三千六四八人に上った(「東照宮御造営目録」東京都秋元和朝文書)。造営総奉行は秋元泰朝、副奉行島三安・庄田安照、総設計・施工は幕府作事方大棟梁甲良豊後宗広、絵画彩色は狩野探幽が狩野派一門を率いて当たった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
栃木県日光市山内にある徳川家康をまつる神社。1616年(元和2)4月17日家康が駿府城で没すると,遺言に基づき,幕府はその夜神式をもって駿河久能山に葬り,墓前に社殿を建てた。遺命により天海の主導で,一周忌を期し下野国都賀郡日光山に改葬することとなり,翌17年仏岩山南に本社,拝殿,本地堂以下が完成,神霊をうつして4月正遷宮の祭礼が行われ,朝廷から東照大権現の神号の宣命と正一位の神階を受けた。なお廟所奥院の木造宝塔は22年竣工した。34年(寛永11)家光の命により大造替が開始され,36年4月ほぼ今日みる堂社が完成し正遷宮がなされた。45年(正保2)朝廷より宮号が宣下され,以後毎年日光例幣使が派遣された。これより以前,日光山領は豊臣秀吉により門前,屋敷,足尾村以外を没収されたが,秀忠は20年日光山領に1400石を加増,東照社領5000石を寄進した。日光山に家光の大猷院(だいゆういん)廟が建立されると,52年(承応1)堂領3630石余が寄進され,55年(明暦1)東照宮領は1万石とされた。この本高1万3630石余に93年(元禄6)の検地打出高,1700年の足知(たしち)が加わり2万5000石余となったが,92年(寛政4)新御領上知により2万0900石余となった。古代以来の日光権現に奉仕していた僧侶,社家らが東照宮にも混合奉仕し,大猷院奉仕も含めて複雑な機構であるが,諸事は東照宮を本とすることが定められた。日光一山は1613年(慶長18)天海が貫主となり,死後公海が門跡となり,54年からは輪王寺宮門跡が総括した。神領支配は目代(もくだい)山口氏が,日光守護は梶定良が担当したが,定良没後幕府は1700年日光奉行を新置し,91年山口氏は処罰され,日光奉行の権限は強化された。
明治維新後は神仏分離により東照宮,輪王寺,二荒山(ふたらさん)神社に分離独立し,東照宮は別格官幣社に列せられたが,堂塔のうち薬師堂(本地堂),鐘楼,鼓楼,五重塔などはそのままおかれた。現在例祭日は5月17日。千人武者行列は秀忠最初の社参行装を伝えたものといわれる。
→東照宮
執筆者:大野 瑞男
現在の建築群は3代将軍家光によって造替され,面目を一新して1636年に完成したもので,のち数回にわたる修理をへているものの,ほぼ当時の姿を伝えている。寛永の造営は幕府が総力を結集して行った。造営奉行は秋元泰朝(やすとも),建築の総指揮は幕府作事方大棟梁(だいとうりよう)甲良宗広(こうらむねひろ),建築の彩色や壁画・天井画は幕府絵所狩野探幽一門その他の人々であった。造営工事の資金はすべて幕府から支出され,その額は金56万8000両,銀100貫目,米1000石である。工事で働いた人力は延べ450万人を超え,多い日には数千人の大工や彫物師が働き,工期はわずか17ヵ月というスピードであった。
東照宮の建築群は,深山を切りひらき,うっそうと茂る杉木立の中に,朱・黒の漆塗,金箔,胡粉の白や極彩色,華やかな彫刻が自然と対比をなして,緊密で変化に富んだ空間をつくりだしている。この建築群は,東照宮を特徴づける数々の建築が,華やかに建つ石鳥居から表門,陽明門をへて本殿にいたる部分と,これとは対比をなしてひっそりと本殿の背後にある奥社の一郭との,二つの部分に分けられる。前者のハイライトをなすのは,権現造の本社(本殿,石の間,拝殿),これをとり囲む唐門と東西透塀,さらにこの外側を囲む陽明門と東西回廊である。この部分は寛永造営時の姿をほぼ伝えているが,本社をとり囲む回廊の後部を石垣工事のためとりはらい(1644),また本社,唐門,陽明門の屋根を檜皮葺き(ひわだぶき)から銅瓦葺きに改めている(1654)。このほかの建築のおもなものに,校倉風の神庫3棟,素木造の神厩舎,唐破風造の水屋,神楽殿,神輿舎,1648年(慶安1)に創建され,1815年(文化12)焼失後17年に再建された五重塔などがある。次に奥社には宝塔,拝殿などの建物があり,宝塔は1641年に木造を石造に改めたが,83年(天和3)に地震で倒壊したため,青銅製に変えられ,現在にいたっている。なお寛永造営時に奉納された大工道具一式も保存されている。
3代将軍家光をまつる大猷院廟は,祖父家康を深く追慕したことにより東照宮のかたわらに営まれ,1653年に上棟した。この建築は東照宮を範としたので,両者には類似点が多い。しかし激動する江戸時代初期の建築界では,わずか20年に満たないにもかかわらず,両者の年代の差が建築の表現上にも大きくあらわれている。
大猷院廟の中心となる本殿,相の間,拝殿をみると,本殿は方3間の母屋の周囲に裳層(もこし)をつけた禅宗仏殿の形式であり,相の間は床の低い石の間でなく,拝殿と同高で本殿とを結び,廊下に変わっている。また東照宮が胡粉塗,漆塗を主とする配色に対し,大猷院は金箔を主とし,また,彫刻も幻想的な鳥獣や中国風のモティーフが少なくなっている。
執筆者:宮沢 智士
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
栃木県日光市山内に鎮座。正式名称は「東照宮」。徳川家康を主とし、豊臣(とよとみ)秀吉・源頼朝(よりとも)を合祀(ごうし)する。家康は1616年(元和2)4月17日駿府(すんぷ)城(静岡市)で没し、遺言により久能山(くのうざん)に神葬祭で葬り、翌年4月、日光の奥宮宝塔の地に改葬、国家鎮護の神として奉斎された。これが本社の起源で、その2月鎮座に先だち東照大権現(だいごんげん)の神号が宣下され、東照社と称した。この地は782年(天応2)山岳信仰の風潮とともに、勝道上人(しょうどうしょうにん)が男体山(なんたいさん)を中心に神仏混淆(こんこう)の霊場を開き、現在の二荒山(ふたらさん)神社・輪王寺(りんのうじ)の基礎をつくって以来、関東地方の信仰の中心となり、中世以降も関東武士に崇敬されてきていた。
家康がこの地を訪ねた記録はないが、ここを関東における霊所、信仰の中心地とみて、ここに一周忌も過ぎたころに祀(まつ)られ、国家鎮護の神たらんことを遺言したものとみられる。その後1645年(正保2)11月に宮号を宣下されて東照宮と称されることとなり、正一位を贈られ、翌年家康の命日にあたる4月17日朝廷より臨時奉幣の儀があり、それより毎年4月幣帛(へいはく)奉納の儀が行われるようになり、例幣使(れいへいし)とよばれ幕末まで続いた。江戸時代に朝廷より毎年幣帛を奉納されたのは、伊勢(いせ)の神宮と東照宮のみであり、東照宮の例幣使はおおむね参議の職にある公卿(くぎょう)が任命され、往路は中山道(なかせんどう)・例幣使街道を、帰路は日光街道・江戸・東海道を通るのを通例とした。
その社殿は1616年11月2代将軍秀忠(ひでただ)が社地を定め、本多正純(ほんだまさずみ)・藤堂高虎(とうどうたかとら)を奉行(ぶぎょう)とし、中井大和守正清(やまとのかみまさきよ)が設計して着工、翌年4月に完成したが、3代将軍家光(いえみつ)は祖父家康を尊敬する心きわめて篤(あつ)く、伊勢の神宮が20年ごとに造替される例に倣い、34年(寛永11)11月に秋元泰朝(あきもとやすとも)を奉行とし、甲良豊後守宗広(こうらぶんごのかみむねひろ)に設計指揮を命じ、36年4月におよそ現在みられる壮麗な社殿を造営した。この寛永(かんえい)の造営費用金56万8000両、銀100貫、米1000石はすべて幕府の支出であり、金箔(きんぱく)248万5500枚、材木総数14万0076本、工事人夫計454万1230人を要した。この社殿造営にあたり、自然の地形利用を十分に考え、老樹・巨木をなるべく残し、建物配置を相互に緊密にして全体的調和を計り、社殿材料、構造の耐久性、また火災・寒冷・湿気に対する対策を考え、建築物の形式、細部の意匠など当時の最高の技術方法を取り入れ、色彩の調和も計り、精巧優美な建造物造営を目ざした。以後元禄(げんろく)年間(1688~1704)の大修理をはじめ、およそ20年ごとに大規模な修繕がなされてきたが、本殿・石之間・拝殿は権現造の典型的なものであり、正面・背面の唐門、東西の透塀(すきべい)、陽明門(ようめいもん)、回廊とともに国宝に指定されている。また全長37キロメートルに及ぶ日光杉並木(特別史跡、特別天然記念物)は1625年(寛永2)以降松平正綱(まさつな)の寄進によるものである。
明治の制で別格官幣社。例祭5月17日、徳川宗家(そうけ)、産子会員が参列し盛大に行われたあと、流鏑馬(やぶさめ)神事が行われ、夕刻3基の神輿(みこし)が本社より二荒山神社に渡御し、同夜そこで宵成(よいなり)祭があり、翌18日にはその二荒山神社より表参道を神橋(しんきょう)近くの御旅所(おたびしょ)まで渡御、そこで特殊神饌(しんせん)を供え、奉幣行事のあと、八乙女(やおとめ)舞、東遊(あずまあそび)を奏するが、この渡御は、1617年(元和3)久能山より遷霊した当時の供奉(ぐぶ)行列を模した百物揃(ひゃくものぞろえ)、千人武者行列でにぎわう。また10月16日五重塔前で舞楽、管絃(かんげん)が行われ、翌17日秋季祭で春の例祭時と同様、渡御祭千人武者行列が催される。
[鎌田純一]
『東照宮編『東照宮史』(1927・東照宮社務所)』▽『日光東照宮編『日光東照宮』(1977・日光東照宮社務所)』▽『日光東照宮編『日光杉並木街道』(1978・日光東照宮社務所)』▽『太田博太郎他監修、稲垣栄三著『原色日本の美術16 神社と霊廟』(1970・小学館)』▽『太田博太郎他監修、桜井敏雄著『名宝日本の美術18 伊勢と日光』(1972・小学館)』
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栃木県日光市山内に鎮座。旧別格官幣社。祭神は徳川家康。豊臣秀吉・源頼朝を合祀。当地日光山は古くから山岳霊山として知られ,1613年(慶長18)天海(てんかい)が貫主となり中興。一方,徳川家康は16年(元和2)に没し,駿河久能山に葬られ(神号は東照大権現),翌年当地に改葬された。45年(正保2)東照社から東照宮に改称。社殿は徳川秀忠が1616~17年に造営,家光が34年(寛永11)から15カ月の大改造を行い,現在の姿がほぼ完成した。55年(明暦元)には後水尾天皇の皇子守澄(しゅちょう)入道親王を初代とする輪王寺宮がおかれた。2万5000石に及んだ神領と日光山一帯の行政は,1700年(元禄13)以降日光奉行が支配した。江戸時代を通じ幕府の厚い保護をうけ,たびたび将軍も社参,毎年朝廷からの例幣使を迎えた。1871年(明治4)日光東照宮から二荒山(ふたらさん)神社と満願寺(のち輪王寺)が分離独立。例祭は5月17日・10月17日。10月に行われる神輿渡御や百物揃千人行列は,家康を日光に改葬する際の渡御を再演したもの。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…中世の絵巻などに描かれた武家の馬屋では,猿が飼われているが,これは猿が馬の病気をなおすと信じられたためである。日光東照宮の神厩は,武家の馬屋の形式で造られ,三猿(見ざる,いわざる,聞かざる)その他の猿の彫刻が飾られている。また彦根城の馬屋はL字形の平面をもち,21の小間,端部に馬丁の休息所をもつ大規模なものである。…
…だが,そうした障壁画や欄間の透し彫には,桃山美術の持つ潑剌とした感覚が薄れ,代わって格式張った荘重な雰囲気が強調されている。同様な性格は,日光東照宮の過剰なまでの彩色や装飾彫刻についても指摘できよう。これらに桃山美術の発展の最後の段階が見られる。…
…江戸初期に日光東照宮造営などで活躍した大工。近江国犬上郡甲良庄法養寺村に生まれた。…
…江戸時代,日光東照宮に参詣すること。社参者には,日光例幣使,将軍,大名,旗本,御家人,一般の武士や農工商の庶民など,さまざまの身分階層にわたったが,御宮(東照宮)と大猷院(家光)御霊屋(おたまや)に拝礼を許されるのは旗本以上に限られ,御家人以下の身分の者は拝見が許されただけであった。…
…1700年(元禄13)に創設。幕府は1648年(慶安1)ごろより目付を1人在勤させ,日光東照宮の警備と山中の監察に当てた。3代将軍徳川家光の没後,その遺臣梶定良が大猷院(家光)廟定番(じようばん)となり,ともに日光山を管轄したが,のち目付在勤制を廃し,日光奉行を創設した。…
…江戸時代,朝廷より日光東照宮の例大祭に差遣された奉幣使。日光への勅使参向は1617年(元和3)の東照社鎮座に端を発するが,いわゆる例幣使発遣は,宮号を宣下され東照宮と称することになった45年(正保2)の翌年,参議持明院基定が臨時奉幣使として日光東照宮に発遣されたのに始まり,これより例となり毎年奉幣使が下向し,1867年(慶応3)に及んだ。…
※「日光東照宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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