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桃山から江戸初期にかけての芸術家。京都の人。号は太虚庵、自得斎、徳友斎など。本阿弥家は足利尊氏(たかうじ)に仕えたと伝える初祖明本(みょうほん)以来、刀剣の磨礪(とぎ)・浄拭(ぬぐい)・鑑定(めきき)の三事を業として栄えてきた有力な上層町衆で、光悦の曽祖父(そうそふ)本光(ほんこう)の代より、熱心な法華宗(ほっけしゅう)信徒の家柄でもあった。光悦は7代光心の長女妙秀を母とし、光心の養嗣子(しし)となって分家した光二を父とする。1615年(元和1)徳川家康より拝領の鷹峯(たかがみね)に一族や多くの工芸家とともに移住し、光悦村とよばれるいわば芸術村を開き、近世初頭の日本美術史上に偉大な足跡を残した。寛永(かんえい)14年2月3日没。鷹峯の光悦一族の位碑(いはい)所はのち寺堂となり、光悦寺と称する。
[尾下多美子]
光悦は、家職はもちろん、さまざまな分野で優れた足跡を残しているが、ことに能書で聞こえ、近衛信尹(このえのぶただ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)と並んで「寛永(かんえい)の三筆」と称された。初め尊朝(そんちょう)法親王より青蓮院(しょうれんいん)流の書法を学んだと伝えるが、日本書道史上かつてなかった華麗で装飾性あふれる独自の書風を創出した。線の細太、運筆の速度に際やかな変化をつけ、文字の姿を瀟洒(しょうしゃ)に変形させた個性的な書である。彼の愛蔵にちなむという「本阿弥切(ぎれ)」の名が物語るように、古筆、上代様(じょうだいよう)を土壌としたものであり、また楷書(かいしょ)の文字には、当時の数寄(すき)者たちの間でことに尊重された南宋(なんそう)の書家張即之(ちょうそくし)の影響も色濃くうかがえるが、それらすべてを彼自身の血肉と化し、さらに桃山という時代精神のもとで大きく開花させた。ことに、慶長(けいちょう)(1596~1615)から元和(げんな)(1615~24)の初めにかけて精力的に制作された詩歌巻に彼の真骨頂が発揮されている。これは、俵屋宗達(たわらやそうたつ)らの手になると伝える金銀泥をふんだんに用いた豪華な下絵の料紙に揮毫(きごう)したもので、伝存するものに「四季草花下絵和歌巻」「鶴下絵和歌巻」「鹿下絵和歌巻」などがある。このほか、角倉素庵(すみのくらそあん)が財力を注いで刊行した嵯峨(さが)本の版下揮毫、1619年(元和5)に集中する『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』などの仏書、そしてかならず年記を加えた寛永年間(1624~44)の『和漢朗詠集』の数々などと、特筆すべき能書活動を伝える。寛永14年80歳で没するまで創作意欲は横溢(おういつ)したが、晩年の書には筆力の衰えと線の震えが目だつ。彼の書風は、素庵、烏丸光広(からすまみつひろ)、小島宗真らに継承され、光悦流という一大潮流を形成して、元禄(げんろく)(1688~1704)のころまで流行した。
一方、光悦の作陶は鷹峯隠棲(いんせい)以後活発化し、「不二山」(国宝)のほか、多くの楽茶碗(らくちゃわん)の優品が伝存する。また「舟橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)」(国宝、東京国立博物館)、「樵夫(しょうふ)蒔絵硯箱」(重文、静岡・MOA美術館)など光悦蒔絵の呼称で親しまれる一連の作品も残している。高度な専門技術を要する蒔絵の制作に彼自ら携わったとはとうてい考えることはできないが、豊かな古典の素養に基づいた斬新(ざんしん)な意匠、装飾的な技法は光悦自身の発想によるものであろう。漆工史上もっとも魅力的というべき重要な遺品である。
[尾下多美子]
『小松茂美監修『日本名跡叢刊 23・34・71 本阿弥光悦 書状他』(1978、83・二玄社)』▽『中田勇次郎編『書道芸術 18 本阿弥光悦』(1976・中央公論社)』▽『小松茂美著『光悦書状 1』(1980・二玄社)』▽『山根有三編『水墨美術大系 10 光悦・宗達・光琳』(1977・講談社)』▽『林屋晴三編『日本のやきもの 10 光悦』(1977・講談社)』▽『赤沼多佳著『陶磁大系 18 光悦・道入』(1977・平凡社)』▽『岡田譲他著『光悦』(1964・第一法規出版)』
桃山・江戸時代初期を代表する書画,漆芸,陶芸に通じた芸術家。京都の人。号は太虚庵,自得斎,徳有斎など。京都で代々刀剣の鑑定・研磨を本業とする上層町衆で,法華信徒の本阿弥家の分家に生まれる。父光二は多賀宗春の次男で,本阿弥宗家7代光心の婿養子となる。母妙秀は光心の長女。彼の交際範囲は広く当代の知名人士と関係があり,物心ともに影響力をもった。加賀の前田家から200石の食知を父光二についでうけ,のち孫光甫の子光山が加賀本阿弥家の祖となる。1615年(元和1)徳川家康より洛北の鷹ヶ峰に敷地を与えられたので,一族や工匠とともに住み,法華信仰をもとにした生活で,いわゆる光悦村をつくった。
光悦の漆芸は,斬新な意匠と器形を創出している。光悦蒔絵(まきえ)の特性をあげると,第一に意匠の題材の選び方が幅広く,その扱いが新鮮である。物語や和歌など日本の古典から広く取材し,しかもしゃれて新鮮な感覚がみられる。このことは,高い教養を身につけた文人がはじめてわかる象徴的な表現で,知的な楽しさを意匠としているのである。それら古典への憧憬とその深い知識を基にした装飾的展開は,書において平安朝の料紙と仮名散らし書きを新たに完成したことにも通じる。第二に加飾材料の用い方がすぐれている。蒔絵に貝,鉛,銀などの加飾材料を大胆に用い,また貝は朝鮮で用いているのをとりいれたりしている。技巧過剰におちいることなく,意匠とよく調和して洗練した作品を仕上げている。代表作は《舟橋蒔絵硯箱》(国宝,東京国立博物館)。なお,この漆芸の系統をひく代表的な作家として,元禄期(1688-1704)の尾形光琳(1658-1716)があげられ,光悦作品を模造した《住の江蒔絵硯箱》(重要文化財,静嘉堂文庫)があって,その傾向が知られる。絵画は宗達や宗達派の作品との区別がつかないので,確かな光悦の作品を知ることができない。なお,〈鷹峯光悦町古図〉にしるされている尾形宗伯宅は,光琳の祖父の家である。
執筆者:郷家 忠臣 光悦の作陶は,1615年鷹ヶ峰の地を拝領してからと考えられている。伝世する作品はおもに楽焼の茶碗で,光悦の手紙によれば,楽家の赤土,白土をとりよせ,あるいは楽家に釉を掛けさせて焼かせるなど,光悦の作陶は楽家2代常慶,3代道入親子の助力を得ておこなわれている。また太衛門という陶工にあてた手紙が現存しており,楽家以外の大窯(おおがま)にも作品を焼かせたようすがうかがわれる。光悦は茶の湯を織田有楽と古田織部に学んだといわれ,光悦の作陶もこの両者の影響を考えなければならない。光悦の茶碗は一体に定形がなく,素人らしい自由な造形性を示している。赤楽,黒楽,白楽があり,飴釉を用いているものもある。代表作には〈不二山〉〈時雨〉〈雨雲〉〈喰違〉〈七里〉〈加賀〉〈毘沙門堂〉〈乙御前〉〈紙屋〉〈雪峰〉などがあげられるが,しいて分類をすれば腰を張らせた半筒形と,腰の丸い作品とに分けられる。
執筆者:赤沼 多佳 書道ははじめ青蓮院尊朝流,近衛流などの影響をうけながら,上代様に直接学んで,ついに肥瘦の変化に富む纏綿(てんめん)華麗な独自の書風〈光悦様〉を創始し,近衛信尹(のぶただ),松花堂昭乗とともに寛永の三筆と呼ばれて名高い。金銀泥の下絵を施した料紙に調和した装飾美溢れる作品があり,おもなものに,〈木版下絵和歌巻〉〈四季草花和歌巻〉〈立正安国論〉などがあげられる。また角倉了以と協力して刊行した豪華な〈嵯峨本〉と呼ばれる,謡本や伊勢物語などの古典の一連の版本が名高い。
→琳派
執筆者:木下 政雄
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(島谷弘幸)
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1558~1637.2.3
寛永文化をになった中心的文化人の1人。庵号は太虚庵。京都の上層町衆本阿弥家に生まれる。芸術に多才を示し,書は近衛信尹(のぶただ)・松花堂昭乗(しょうじょう)と並んで寛永の三筆といわれ,のちに光悦流とよばれる。嵯峨本は彼の書を版下に,華麗な装幀がほどこされたもの。1615年(元和元)徳川家康から洛北鷹峰を与えられ,一族とともに茶屋四郎次郎・尾形宗柏・筆屋妙喜らと移り住み,光悦町をひらいて芸術の里とした。そこでは楽常慶の協力をえて作陶を行い,蒔絵の意匠にも参与し,光悦蒔絵とよばれる様式が成立した。代表作は白楽茶碗「不二山」,「舟橋蒔絵硯箱」(ともに国宝)。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…幕府の文化政策に対抗するかたちで宮廷を中心に一種の古典復興の気運がおこり,上層町衆の一部もそれに歩調を合わせた。本阿弥光悦の書と,彼の意匠による蒔絵や茶陶,俵屋宗達のやまと絵などは,その環境の中から生まれたもので,そこには王朝のみやびと桃山の闊達な遊戯精神との見事な結合が見られる。すぐれた日本的意匠の創造という点で,日本美術史上の一つの頂点をここに認めることができる。…
…素軒画の模写ものこされている。光琳の曾祖父道柏は本阿弥光悦の姉を妻とし,祖父宗柏も光悦周辺の文化人の一人であったため,尾形家には光悦や宗達の作品ものこされていた。これを契機として光琳は宗達画風へ転向,独自の様式形成へと向かうことになった。…
…山号は大虚山。本阿弥光悦は,1615年(元和1)徳川家康から洛北鷹峰に土地を賜って,一族や下職人らとともに,ここで新しい町づくりを始めた。光悦の芸術村,また法華の町ともいわれる鷹峰光悦町がこれである。…
…ほかには江戸時代に日本へ渡った黄檗(おうばく)宗の3僧,隠元,木庵(もくあん)(1611‐84),即非(そくひ)(1616‐71。諱は如一(によいち),木庵の法弟)を〈黄檗の三筆〉,また近衛信尹(のぶただ)(号は三藐院(さんみやくいん)),本阿弥光悦,松花堂昭乗を〈寛永の三筆〉と呼ぶが,この呼名もおそらく明治以降であろうといわれ,1730年代(享保年間)には寛永三筆を〈京都三筆〉と呼んでいる。また巻菱湖(まきりようこ),市河米庵,貫名海屋(ぬきなかいおく)(菘翁(すうおう))の3人を〈幕末の三筆〉という。…
…伏見宮尊朝法親王は青蓮院流でもとくに尊朝流と呼ぶ名筆で知られる。公卿では青蓮院流から近衛流を創始した近衛前久(さきひさ)があり,とくにその子近衛信尹(のぶただ)は強い筆線で大字の仮名に異色の書風を現出し,三藐院(さんみやくいん)流と称され,江戸初期の本阿弥光悦,松花堂昭乗とともに〈寛永の三筆〉と呼ばれる。その大字屛風は当時盛行した障壁画に伍して和様の書を迫力ある作品にしあげている。…
…すなわち弟子を使って工房制作を行い,俵屋絵として売り出したのである。出自を生かして千少庵,烏丸光広,本阿弥光悦など当時一流の文化人,公卿と親交を結んだことが,その画風形成上にすぐれた影響をもたらした。特に光悦との協力関係は重要で,光悦が版行した嵯峨本において,木版雲母摺(きらずり)下絵の意匠を担当したのは宗達であった。…
…16世紀の法華一揆が盛んなときには,本法寺の大檀那本阿弥家が法華の大将として活躍したが,天文法華の乱に敗退して堺に移り,間もなく一条堀川に再興され,1590年(天正18)豊臣秀吉の洛中整理策により現在地に移転。本阿弥家はこの後も本法寺と深いつながりをもち,江戸時代の初期に本阿弥光悦が出るにおよんで,一門をはじめ多くの芸術家が信者となった。長谷川等伯の作をはじめとする近世初頭のすぐれた美術品が当寺に数多く伝わるのはこのためである。…
…伝統的技法も受け継がれており,狩野永徳下絵の《芦穂蒔絵鞍・鐙》(東京国立博物館)はこの時代の技術的水準を伝えている。 江戸時代初期に独創性を発揮したのは本阿弥光悦である。彼の《舟橋蒔絵硯箱》(東京国立博物館)は卓抜な意匠を示すが,ことに橋の部分に用いた鉛板は意表をつく。…
…桃山時代後期に興り,近代まで続いた造形芸術上の流派。宗達光琳派とも呼ばれ,本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し,尾形光琳・乾山兄弟によって発展,酒井抱一,鈴木其一(きいつ)が江戸の地に定着させた。その特質として(1)基盤としてのやまと絵の伝統,(2)豊饒な装飾性,(3)絵画を中心として書や諸工芸をも包括する総合性,(4)家系による継承ではなく私淑による断続的継承,などの点が挙げられる。…
※「本阿弥光悦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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