角倉素庵(読み)すみのくらそあん

精選版 日本国語大辞典 「角倉素庵」の意味・読み・例文・類語

すみのくら‐そあん【角倉素庵】

江戸初期の貿易家、朱子学者。通称与一。名は玄之(はるゆき)角倉了以長子富士川再疎通、淀川改修など、幕府土木河川の仕事に功績があった。また、安南(ベトナム)貿易にも従事した。能書家で洛下の三筆といわれ、角倉流を創始した。本阿彌光悦とともに刊行した嵯峨本は有名。元亀二~寛永九年(一五七一‐一六三二

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デジタル大辞泉 「角倉素庵」の意味・読み・例文・類語

すみのくら‐そあん【角倉素庵】

[1571~1632]安土桃山から江戸初期の豪商京都の人。通称、与一。了以の長男。父の事業を継ぎ、海外貿易・土木事業を推進した。また、書を本阿弥光悦に学び、角倉流(嵯峨流)を創始。

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朝日日本歴史人物事典 「角倉素庵」の解説

角倉素庵

没年:寛永9.6.22(1632.8.7)
生年:元亀2.6.5(1571.6.27)
近世初期の京都の豪商で文化人。父角倉了以,母吉田栄可の娘の長男。通称与一(京都二条の角倉本家では代々与一を称する)。諱は玄之のち貞順,字は子元。天正16(1588)年藤原惺窩に面接,惺窩の学識の感化を受け,儒学への広範な学究者となり,林羅山をも知り,惺窩に羅山を引き合わせるなど,日本儒学史上の重要な役割を果たした。惺窩に信頼され,その『文章達徳録』百余巻および綱領(惺窩自ら古今の詩話文章を集めたもの)の削補に取り組むように指示され,これが生涯の仕事のひとつになった。このころ本阿弥光悦とも親交があり,光悦より書を習得,のちに光悦と共に「寛永の三筆」のひとりとされた。光悦らの協力によって,角倉の富裕な環境にあったこともあって慶長4(1599)年,『史記』の刊行を始め,以後古典の数々の刊行を行い,嵯峨本と称される典雅な刊本が素庵によって版行された。この刊行は同15年ごろまで続けられ,後世に残る業績となった。一方,この間,素庵は慶長8年から父了以の安南国東京(インドシナ半島)との朱印船貿易に協力,自ら安南国回易大使として責任ある活動を行い,朱印船貿易を継承した。また父が行っていた大堰川の開削,富士川の疏通,天竜川,鴨川水道,高瀬川の運河の難工事など,父のよき補佐役として事業に専念した。素庵は幕命により同11年から同14年に甲斐(山梨県),伊豆(静岡県)などの鉱山の巡視を命ぜられ,大坂の陣(1614~15)には,淀川など河川運輸面で軍需物資の運搬に貢献し,功労があった。元和1(1615)年には幕府より高瀬船,淀川過書船支配を命ぜられ,また山城(京都府)の代官職についたが,同7年ごろに不治の病におかされ,公職家業から引退し,生来の好学心から,学問研究に余生を送った。寛永4(1627)年息子らに財産を分与し,自ら数千巻の蔵書をもって隠棲。墓は京都市念仏寺および二尊院にある。遺著に『期遠集』『百家集』があるが今日伝わらない。<参考文献>「角倉源流系図稿」(京都角倉平吉氏蔵),「角倉文書」(高輪美術館蔵)

(中田易直)

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改訂新版 世界大百科事典 「角倉素庵」の意味・わかりやすい解説

角倉素庵 (すみのくらそあん)
生没年:1571-1632(元亀2-寛永9)

江戸初期の京都の豪商。嵯峨を本拠とした角倉(本姓吉田)了以の長子で,通称与一,諱(いみな)は玄之,のち剃髪して貞順,字を子元,素庵は号。医者と土倉業を二本柱とする吉田一族の裕福な環境のなかで,若くして学問を修め,博識な教養と幅広い交友を基礎に,上層町人を中心とする寛永文化を舞台裏で支えた。林羅山を藤原惺窩(せいか)に紹介して二大儒者を引きあわせたり,本阿弥光悦らとともに嵯峨本の出版にもあたった。能書家でもあり,角倉流書風の始祖とされる。家業の面では,父了以を助けて大堰(おおい)川,富士川,天竜川の開削事業を補佐し,海外貿易でも日本国回易大使司となって父の没後も角倉船を派遣している。幕府とのつながりも徐々に深め,1606年(慶長11)徳川家康の命で甲斐,伊豆などの鉱山を巡視し,大坂冬の陣では徳川方の兵器食糧を運搬した。高瀬船,淀川過書船支配のほか代官にも任命され,幕臣となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「角倉素庵」の意味・わかりやすい解説

角倉素庵
すみのくらそあん
(1571―1632)

江戸前期の豪商、文人。通称与一(よいち)。号は素庵。角倉了以(すみのくらりょうい)の長子。朱印船貿易家としても知られた父了以の事業を助け、大堰井(おおい)川、富士川、天竜川の開削事業を補佐した。海外貿易でも自ら日本国回易大使司(にほんこくかいえきだいしし)を称して、角倉船を海外に派遣した。朱印船貿易のほかにも、淀川転運使や木曾山の巨木を運び出す巨材採運使、近江国坂田郡の県令(代官)に任命された。文化人としても知られ、藤原惺窩(ふじわらせいか)に師事し朱子学を学び、惺窩と林羅山(はやしらざん)を引き合わせた。また本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の協力を得て嵯峨(さが)本を出版している。能筆家としても知られ、光悦とともに洛下三筆と称された。

[小山幸伸]

『川島元次郎著『朱印船貿易史』(1940・巧人社)』『林屋辰三郎著『角倉素庵』(1978・朝日新聞社)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「角倉素庵」の解説

角倉素庵 すみのくら-そあん

1571-1632 江戸時代前期の豪商。
元亀(げんき)2年6月5日生まれ。角倉了以の長男。父の朱印船貿易や,河川開発事業を継承。一方,藤原惺窩(せいか)に儒学をまなび,林羅山(らざん)を惺窩に紹介。本阿弥光悦らと豪華な嵯峨(さが)本を出版し,能書家としても知られた。寛永9年6月22日死去。62歳。名は玄之(はるゆき)。字(あざな)は子元。通称は与一。法名は貞順。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「角倉素庵」の意味・わかりやすい解説

角倉素庵
すみのくらそあん

[生]元亀2(1571).京都
[没]寛永9(1632).6.22. 京都
安土桃山~江戸時代初期の海外貿易家。名は玄之。江戸幕府の代官。角倉了以の長子。

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367日誕生日大事典 「角倉素庵」の解説

角倉素庵 (すみのくらそあん)

生年月日:1571年6月5日
安土桃山時代;江戸時代前期の京都の豪商;文化人
1632年没

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世界大百科事典(旧版)内の角倉素庵の言及

【嵯峨本】より

…江戸時代の初め,慶長13年(1608)から元和年間(1615‐24)にかけ,洛西(京都西部)嵯峨の素封家角倉(すみのくら)素庵(光昌)が,寛永の三筆の一人本阿弥(ほんあみ)光悦の協力をうけて版行した私刊本の総称。開版者の名を冠して〈角倉本〉ともいい,版下が光悦の自筆またはその門流の手になるところから〈光悦本〉とも呼ぶ。…

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