日本歴史地名大系 「寝院南俣」の解説
寝院南俣
ねじめいんみなみまた
平安時代後期から戦国期の地名。禰寝院が南北に分れ、禰寝院南俣と禰寝院北俣(現大根占町)として成立した。禰寝南俣、あるいは単に禰寝院とも記され、
治暦五年(一〇六九)正月二九日の藤原頼光所領配分帳案(禰寝文書、以下断りのない限り同文書)に権大掾頼貞宛の給分として「禰寝院内参村 田代 志天利 佐多」がみえ、この場合の禰寝院は禰寝院南俣をさしている。中世の禰寝氏は藤原姓、さらには建部姓を称していた。保安二年(一一二一)正月一〇日の大隅国権大掾建部親助解に「禰寝院南俣」とみえる。同親助解によると、親助は父頼親より禰寝院南俣を継承したが、年々の官物・負物を負担しきれずに伯父頼清に沽却した。頼清は正八幡宮(現鹿児島神宮)御馬所検校で、当時の南俣に対する薩摩国住人平行道(親助の妹婿)の妨害が続くならば、正八幡宮は神人を派遣するとしており(同年六月一一日正八幡宮政所下文)、南俣はこの時期すでに正八幡宮領となっていたと考えられる。南俣は頼親―親助―頼清―清貞と継承されていくが、久安三年(一一四七)七月一五日の前大隅掾建部親助申状によると、同年六月三〇日に薩摩国
大隅国建久図田帳によると、禰寝南俣四〇町は正八幡宮領で、本家は石清水八幡宮、地頭は中原親能であった。四〇町の内訳は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報