建部氏(読み)たけべうじ

改訂新版 世界大百科事典 「建部氏」の意味・わかりやすい解説

建部氏 (たけべうじ)

(1)古代・中世の近江の豪族。1074年(承保1)の長命寺文書に奥島荘押領使建部氏と見えるのが初見。神崎郡建部荘(現滋賀県東近江市,旧八日市市)を本拠とする。鎌倉前期愛智(えち)郡鯰江(なまずえ)荘下司を一族と争った建部入道西蓮の本姓は紀氏。西蓮は近江守護佐々木氏に従い,六角(佐々木)泰綱の乳父として家中にはぶりをきかせたらしい。下って建部蔵人胤泰があり,佐々木定頼に仕えた。また1544年(天文13)連歌師宗牧が東国歴覧の途中建部源八を訪ね,その父建部左馬允の死を弔い菩提寺妙園寺で追善の連歌会を催している。一族の一人建部伝内(でんない)(1532-90)は青蓮院(しようれんいん)尊鎮法親王の門に入って書を学び伝内流をなす。六角義賢に仕えて重んぜられ,名の1字を与えられ賢文(かたぶん)と称した。六角氏没落後豊臣秀吉に仕えた。賢文の子昌興(伝内。1580-1655)は右筆として徳川家康に仕え,昌興の子直昌も右筆を務めたが,その子昌孝以後は旗本として幕末にいたった。
執筆者:(2)近世大名家。外様。(1)の建部氏と同じく近江国神崎郡建部郷の土豪に出自するという。初代政長の祖父織田信長に仕え若狭小浜で郡代を務め,父は豊臣秀吉・秀頼に仕え摂津尼崎で郡代を務めた。政長も父の死後に尼崎の郡代となったが,大坂冬の陣の開戦にあたり,外祖父が池田輝政であった関係から徳川氏に味方し,尼崎に貯蔵されていた兵糧米を守って豊臣氏の手に渡さなかった。夏の陣(1615)後この功により加増されて摂津国で1万石を与えられて大名となる。翌年所領を播磨国揖保郡に移され,林田(現,姫路市内)に陣屋を構える。維新後,子爵
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「建部氏」の意味・わかりやすい解説

建部氏
たけべうじ

江戸時代、播磨(はりま)国(兵庫県)林田藩1万石余の外様(とざま)大名家。初め建部高光あり、豊臣(とよとみ)秀吉に仕え、若狭(わかさ)(福井県南西部)の郡代を経て、摂津(せっつ)(兵庫県)尼崎(あまがさき)郡代となり、子光重、孫政長(まさなが)がこれを継いだ。光重は1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに石田三成(みつなり)方にくみしたが、政長は14年大坂冬の陣に徳川方につき、豊臣方の攻撃に尼崎を死守した。この功により翌年、知行(ちぎょう)700石から一躍1万石の大名となった(尼崎藩)。1617年(元和3)尼崎から播磨揖東(いっとう)郡に移され、林田に陣屋を設けた(林田藩)。政宇(まさのき)、政周(まさちか)、政民(まさたみ)、長教(ながのり)、政賢(まさかた)、政醇(まさあつ)、政和(まさより)、政世(まさよ)と続いて明治期を迎えた。

[小林 茂]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「建部氏」の意味・わかりやすい解説

建部氏
たけべうじ

播磨国の林田藩主。近江佐々木氏の一族といわれ,その祖は佐々木判官時信の流れとも,ヤマトタケルノミコトの子稲依別王の後裔ともいわれる。戦国時代にいたって建部高光 (1537~1607) が出,織田信長に仕え近江守山 500石,のち摂津尼崎に移り,孫の政長のとき徳川家康に仕え,大坂の陣に功績あって1万石,元和3 (17) 年林田に移封され1万石,以後代々藩主を世襲,明治にいたって子爵。

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世界大百科事典(旧版)内の建部氏の言及

【建部】より

…古代の建部の分布は東は常陸から西は薩摩におよび,広範に設定されたことが知られる。部民の建部を管掌した伴造は建部君であり,645年(大化1)孝徳天皇の即位式に犬上建部君が金の靫を帯びて壇(たかみくら)に侍したこと,宮城十二門の門号に建部門があることから,古く建部氏が朝儀に侍し,宮門の守衛にあたる軍事的な氏族であったことがうかがえる。【佐藤 信】。…

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