日本大百科全書(ニッポニカ) 「小口忠太」の意味・わかりやすい解説
小口忠太
おぐちちゅうた
(1875―1945)
眼科学者。長野県上田市に生まれる。済生学舎に学んで医師となり、明々堂眼科の須田哲造(すだてつぞう)(1848―1894)に師事し、さらに東京帝国大学選科に進んで河本重次郎(こうもとじゅうじろう)(1859―1938)に眼科学を学んだ。のち陸軍に入り、陸軍軍医学校教官となり、1912年(大正1)南満医学堂教授となってドイツに留学、帰国後、1919年愛知医学専門学校教授となり、再度の欧米留学後、愛知医科大学教授、同大学長、名古屋医科大学教授などを歴任し、1940年(昭和15)定年退職、名誉教授となった。昭和20年7月没、享年71。生地上田市の大輪寺には門下生らによって建てられた記念墓碑がある。
研究業績は400編を超えるが、日露戦争後に発表した『戦役衛生史眼損傷篇(へん)』は軍陣医学上有名である。また、1905年(明治38)彼が発見した先天性停止性夜盲は「小口病」として世界的に知られる。1929年(昭和4)国際眼科学会理事となり、1933年帝国学士院賞を受けた。
[福島義一]
『福島義一著『日本眼科史』(『日本眼科全書 第1巻』1954・金原出版)』▽『宇山安夫著『わが銀海のパイオニア――明治以後における眼科の人々』(1973・千寿製薬学術部)』