大輪寺(読み)だいりんじ

日本歴史地名大系 「大輪寺」の解説

大輪寺
だいりんじ

[現在地名]中条町東本町

中条町中心市街地の北寄りにある。平田山と号し曹洞宗。本尊は釈迦如来。寺伝では康安元年(一三六一)山城南禅なんぜん寺前住の平田慈均により開かれ、当時は臨済宗であった。永正六年(一五〇九)に再興されそののち曹洞宗に属したといわれる。文和三年(一三五四)八月二二日の中条茂資寄進状(大輪寺文書)に寺名がみえる。茂資は奥山おくやま庄内中条なかじよう鼓岡つづみおか(現黒川村)の田在家山野一円を当寺へ寄進した。貞治七年(一三六八)には茂資の子政義(政資)から中条石曾禰いしそね田地を寄進され(同年二月二五日「中条政義寺領寄進状」同文書)、その後も中条氏らによる寺領寄進が続いた。

大輪寺
だいりんじ

[現在地名]結城市結城 戸の町

の町南東部に所在。如意山観音院と号し真言宗豊山派。本尊如意輪観音。寺伝によれば安貞元年(一二二七)元観が常陸国河内郡田河原(未詳)にあった大輪坊を移して大輪寺と称したのが始まりという。旧寺地は人手ひとで町にあり、人手観音堂や御嶽竹おんたけちく院と一体的関係にあって、結城晴朝から崇敬され、手厚い保護を受けた。晴朝が大輪寺に宛てた文書のなかに次のような書状がある(大輪寺文書)

<資料は省略されています>

かつて大谷瀬おおやぜ村にあった蔵王ざおう権現は、南北朝時代の創建由緒をもつが、大輪寺はその別当寺をも兼ねており、山岳信仰と深い関係があったようである。

大輪寺
だいりんじ

[現在地名]上田市中央北一丁目

上田城の北東房山村新田ぼうやまむらしんでんにある。甲斐塚原村曹洞宗恵運寺末。本尊釈迦如来。真田氏の崇敬の厚かった寺である。

もと戸石といし(現上田市大字上野)の麓の伊勢山いせやま村のうち畑山はたやま(現上田市大字上野字畑山)にあったが、武田・村上両氏の戦いで天文年間(一五三二―五五)兵火にかかり焼失した。慶長年間(一五九六―一六一五)真田昌幸が現在の地に再建した。

なお寺伝によると、真田昌幸夫人寒松院の開基と伝えるが、現在の地に再建の時、その発願開基となったものであるとされている。

大輪寺
だいりんじ

[現在地名]韮崎市旭町上条北割

旭町上条北割の宮下あさひまちかみじようきたわりのみやのした集落の東部にある。甘利山と号し、日蓮宗。本尊は釈迦如来。慶応四年(一八六八)の銘細帳(寺記)によれば甘利晴吉(昌忠、法名大輪院殿)が開基となり、永禄一〇年(一五六七)甘利虎泰の屋敷跡に一宇を建立したのが草創で、天正一八年(一五九〇)晴吉の次男が剃髪、慶受院日国と号し開山になったといい、同年には塔頭の永寿庵が修造されている(甲斐国志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報