小寺房治郎(読み)こてらふさじろう

改訂新版 世界大百科事典 「小寺房治郎」の意味・わかりやすい解説

小寺房治郎 (こてらふさじろう)
生没年:1870-1949(明治3-昭和24)

日本近代化学工業の祖。大阪府中河内郡大戸村の生れ。1896年帝国大学工科大学応用化学科卒業,ただちに農商務技師となり,地質調査所勤務。1900年農商務省(のちの商工省)工業試験所成立とともに,兼ねてその創設業務に当たり,01年同所専任技師,06年第1部長,08年第5部長に進み,電気化学工業研究のため同年からアメリカ,イギリスドイツへ2ヵ年留学,ことにドイツで空中窒素固定法の発明者F.ハーバーに師事,15年工学博士,18年新設の臨時窒素研究所所長,24年高松豊吉の後をうけ第3代工業試験所所長となった。以来40年退任まで同所の研究を指導,多くの人材を育成し,またアンモニア・メチルアルコール・窒素合成などの工業化を基礎づけ,日本の電気化学・高圧合成化学技術分野の発展に大きな足跡を残した。なお工業化学会会長・発明協会理事などを歴任したほか,日本標準規格石炭分析・試験法の制定にも尽くした。
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小寺房治郎 (おでらふさじろう)

小寺房治郎(こでらふさじろう)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小寺房治郎」の意味・わかりやすい解説

小寺房治郎
こてらふさじろう
(1870―1949)

化学技術者。明治3年大阪に生まれる。三高を経て、1896年(明治29)帝国大学工科大学応用化学科を卒業。同年、農商務省技師となり、地質調査所に勤務。1900年(明治33)東京工業試験所設立とともに同所技師となった。1908~1910年電気化学工業研究のため、アメリカ、イギリス、ドイツに留学し、ドイツではアンモニア合成で有名なハーバーの指導を受けた。1915年(大正4)工学博士の学位を取得。1918年臨時窒素研究所(1928年には東京工業試験所第六部に併合)の設立と同時に所長となり、アンモニア合成を日本で工業化することに大きな貢献をした。1924年東京工業試験所の第3代所長となり、16年間その地位を務めた。彼のアンモニア合成技術における基礎研究、工業化研究のなかで多数の化学技術者が輩出した。1919、1920年工業化学会の会長を務めた。

[奥山修平]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小寺房治郎」の解説

小寺房治郎 こでら-ふさじろう

1872*-1949 明治-昭和時代の化学者。
明治4年12月6日生まれ。33年設立当初の農商務省工業試験所にはいり,41年欧米に留学,ドイツでF.ハーバーらにまなぶ。大正13年東京工業試験所長。アンモニア合成を研究し,その工業化につくした。昭和24年12月26日死去。79歳。大阪出身。帝国大学卒。

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世界大百科事典(旧版)内の小寺房治郎の言及

【小寺房治郎】より

…日本近代化学工業の祖。大阪府中河内郡大戸村の生れ。1896年帝国大学工科大学応用化学科卒業,ただちに農商務技師となり,地質調査所勤務。1900年農商務省(のちの商工省)工業試験所成立とともに,兼ねてその創設業務に当たり,01年同所専任技師,06年第1部長,08年第5部長に進み,電気化学工業研究のため同年からアメリカ,イギリス,ドイツへ2ヵ年留学,ことにドイツで空中窒素固定法の発明者F.ハーバーに師事,15年工学博士,18年新設の臨時窒素研究所所長,24年高松豊吉の後をうけ第3代工業試験所所長となった。…

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