小嶺村
こみねむら
[現在地名]八幡西区小嶺一―三丁目・小嶺・小嶺台一―四丁目・千代一丁目・船越三丁目・大平三丁目
下上津役村の南東、金山川の最上流域に位置し、北は上上津役村、南西は香月村、南は畑村。小峰とも記し、集落は本村および岸高・三畝田の三ヵ所(地理全誌)。小早川時代の指出前之帳では上上津役村の枝郷として扱われ、同村に含まれて高付されている。慶長七年(一六〇二)の検地高一七六石余、うち大豆一八石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高一八九石余・反別一六町一反余、家数一六・人数一〇三(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も一八九石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数二八(うち麹家一)・人数一二二、馬二・牛二三(別本「続風土記附録」)。
小嶺村
くんみむら
[現在地名]渡嘉敷村渡嘉敷
渡嘉敷村の集落の西に位置する。「琉球国由来記」に小嶺村とあり、祭祀は「小嶺ノ神トノ 首里大屋子主取」などで、当地は重要な拝所が集中している。このことから城島や里、久米頂山から降りて住みついた人々が村立てをした場所であるという伝承がある。渡嘉敷間切の歴代の地頭代が小嶺親雲上であったことも(「球陽」尚穆王四二年条など)、当地の古い由緒を物語るものであろう。里積記の諸村位定では渡嘉敷村とともに田下・畠下。
小嶺村
こみねむら
[現在地名]豊田市小峰町
矢作川の支流割間川が矢作川に合流する辺りに位置する。文明一六年(一四八四)の如光弟子帳(上宮寺蔵)に「小峯 一箇所 鴛沢末」とあり、天正一九年(一五九一)の上宮寺末寺法制定連判(同寺蔵)にも「こみね教専」「こみね祐専」と記す。上宮寺(現岡崎市)末道場の鴛沢道場末として「小峯」に道場があったことがわかる。
小嶺村
こみねむら
[現在地名]金沢市小嶺町
北方村の南東、森下川左岸に位置。正保郷帳では北方村と並記され、高一五七石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高六一石、免五ツ五歩(三箇国高物成帳)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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