日本大百科全書(ニッポニカ) 「小幡藩」の意味・わかりやすい解説
小幡藩
おばたはん
上野(こうずけ)国甘楽(かんら)郡小幡(群馬県甘楽町)周辺を領した譜代(ふだい)藩。1590年(天正18)徳川家康の家臣奥平信昌(おくだいらのぶまさ)が小幡周辺3万石を領し、宮崎城主(富岡市)となったのが当藩の興りとされている。1601年(慶長6)信昌が美濃加納(みのかのう)(岐阜市)に移封後、16年(元和2)以前に織田信長の二男信雄(のぶかつ)の嫡流信良(のぶよし)が2万石ながら准国主の格式で入封。以後7代にわたり在封したが、1767年(明和4)信邦(のぶくに)は山県大弐(やまがただいに)の明和(めいわ)事件に連座して蟄居(ちっきょ)となり、家督を継いだ信浮(のぶちか)は並(なみ)の家格に落とされ、出羽高畠(でわたかはた)(山形県東置賜(おきたま)郡高畠町)に移封された。かわって上野上里見(かみさとみ)(群馬県高崎市)から松平(奥平)忠恒(ただつね)が2万石で入封、1871年(明治4)の廃藩まで4代、1世紀にわたり在封した。なお1848年(嘉永1)忠恵(ただしげ)の代に、若年寄としての功労により、城主格を与えられた。廃藩後小幡県となり、群馬県、熊谷(くまがい)県を経て76年再置の群馬県に編入された。
[井上定幸]