改訂新版 世界大百科事典 「水野氏」の意味・わかりやすい解説
水野氏 (みずのうじ)
尾張国の土豪,江戸時代の譜代大名。先祖は多田満仲の弟満政とされ,重房のとき尾張国知多郡小河村に住して小河氏を称し,のち春日井郡水野に移って水野氏と改めたという。1487年(長享1)に没した貞守が三河国刈屋に城を築き,その後は代々刈屋・小河両城を本拠とした。天文期(1532-55)に活躍した忠政の女於大の方(伝通院)は同国岡崎の松平広忠に嫁して徳川家康を生んだが,水野氏が松平氏と敵対する織田氏にくみしたので離別された。於大の方の兄信元は織田信長の旗頭として軍功があったが,信長の怒りを買い殺害された。家は弟忠重が継ぎ,信長ついで家康に仕え,戦功があった。忠重のあとはその子勝成(かつなり)が継いだ。これが水野宗家で,大名家として廃藩時まで至った家はこのほか4家がある。
(1)宗家は刈屋,大和郡山,1619年(元和5)備後福山10万石と移り,98年(元禄11)一度無嗣絶家となったが再興が許され,下総結城1万8000石で維新に至った。(2)勝成の弟忠清を祖とする家は,上野小幡,刈屋,三河吉田,1642年(寛永19)信濃松本7万石と移り,1725年(享保10)改易となったが再興され,三河大浜,77年(安永6)駿河沼津2万石,忠成(ただあきら)のとき5万石,1868年(明治1)上総菊間と転封し廃藩に至る。(3)忠清の庶子忠増の家も大名に取り立てられ,1725年安房北条,1827年(文政10)上総鶴牧1万5000石と移り廃藩に至った。(4)信元の弟忠守の家も大名となり,下総山川をはじめとして1645年(正保2)三河岡崎5万石,忠之のとき6万石,1762年(宝暦12)肥前唐津,1817年(文化14)遠江浜松,46年(弘化3)出羽山形5万石,70年近江朝日山と転封し廃藩に至った。この家系に天保改革を主導した忠邦が出ている。以上4家とも維新後子爵。もう1家は紀州徳川家の付家老となった家で,1868年新宮藩3万5000石を立藩した。のち男爵。旗本も多く,家康ゆかりの一家として繁栄した。
執筆者:林 亮勝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報