小田島庄(読み)おだしまのしよう

日本歴史地名大系 「小田島庄」の解説

小田島庄
おだしまのしよう

平安時代後期からみえる庄園で、村山盆地北東部、古代・中世村山郡のほぼ南半分を占める。東は奥羽山脈、西は山をひかえ、南はみだれ川を境に成生なりゆう庄、西は寒河江さがえ庄に接する。名称の小田は古代の開発・勧農に由来すると考えられ、島は開発・開田地につけられることが多い。

関白藤原師通の日記である「後二条師通記」寛治六年(一〇九二)一二月四日条によれば、「出羽小但嶋庄」は「一条院御時、於記録不被仰、何況二条殿時免判不可召国司許」であったという。これによれば、一条院の時にも記録の提出を求められることなく領有を続けてきたことになる。しかし一条天皇の在位期間は寛和二年(九八六)から寛弘八年(一〇一一)で、奥羽実情からするとあまりにも早すぎる。また「記録」とあるのは「記録所」のことと考えられ、一条院は後三条院の誤りであろう。当庄の成立は後三条天皇の延久年間(一〇六九―七四)以前ということになろう。また二条殿は師通の大叔父にあたる藤原教通で、治暦四年(一〇六八)に関白となっている。二条殿の時にも当庄の領有をめぐり国司免判のことが取沙汰されたとある。不法所領に対し国司が検田権を行使し、公験のない開発私領を収公しようとしたため、開発領主が中央の権門貴族へ自己の地位確保のため訴えたのであろう。これらのことから、当庄は一一世紀中頃に寄進により成立したと考えられる。本家は摂関家藤原氏が領有、領家は出羽国内の状況より平泉藤原氏の関与が考えられる。在地領主は不明であるが、郡司クラスの、開発を機に勢力を伸ばした領主層と考えられる。平安時代末期における庄園の領域は、奈良時代の条里制を中心とした平野部とその周辺に限られていた。当地方の平安時代の集落遺跡の分布をみると、東根条里遺構周辺や、村山郡衙と思われる郡山こおりやま遺跡付近に密集している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報