小畠村
こばたけむら
[現在地名]三和町小畠
亀石村の北、大矢村の西に位置する広域の村。江戸後期には「小畑」とも記された(天保郷帳)。東流する小田川流域に神石郡随一の沃野が開け、安田(現油木町)と上下(現甲奴郡上下町)を結ぶ街道に沿って中心集落がある。村域内に河原郷遺跡(弥生時代)、岩屋遺跡(同)、河原郷・原・八つ塚・大門などの古墳群があり、古代志麻郷(和名抄)の中心地と考えられている。中世には志摩利庄として推移するが、在地支配に当たったのは馬屋原氏であった。
元和五年(一六一九)の備後国知行帳では小畠村(一八〇石余)・酒屋村(二五六石余)・末元村(九一石余)・折口村(八〇石余)の四ヵ村であり、「寛文朱印留」でも同様、元禄一三年(一七〇〇)の備前検地帳以降小畠村(七七五石余)一村として高付される。
小畠村
おばたけむら
[現在地名]木沢村小畠
沢谷村の西、坂州木頭川上流北岸山間に位置する。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図には「お畠村」とみえる。享保七年(一七二二)の仁宇谷村々棟付帳(湯浅家文書)では高一〇石余。宝暦一四年(一七六四)の小畠村検地帳(斎城家文書)によると田二反余・畑四町六反余、合計田畑四町九反余、高一〇石余。この検地帳には隣村の岩倉村分も書上げられており計七町八反余・高一三石余。
小畠村
おばたけむら
[現在地名]池田町小畑
部子川の下流、小綱谷川が合流する付近にあり、松ヶ谷村の東に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「池田部子谷村」に含まれると考えられるが、延宝六年(一六七八)の検地帳(安達仲阿文書)に村名がみえ、正保郷帳では田方・畠方各々四七石余。「越前地理指南」に「二ケ所居ス」とあり、上小畑と下小畑の二地区に分居していたとみられる。また「越前国名蹟考」は枝村として「原ケ中」を記す。農業のほか焼畑作り、山漆・三椏・楮などの栽培、養蚕が行われた。
小畠村
おばたけむら
[現在地名]荻町藤渡
藤渡川の南岸、山ノ口川の北に位置する標高五五〇メートル前後の集落。小畑とも記し、こばたけとも発音する。天文二〇年(一五五一)頃の直入郷葎原土貢帳写(豊州雑誌所収豊後文章)に小畑がみえる。正保郷帳では藤原郷に属し、畑方のみで高三五石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 