日本歴史地名大系 「小鍋村」の解説 小鍋村こなべむら 長野県:長野市小鍋村[現在地名]長野市小鍋田中(たなか)村の北、冨士(ふじ)ノ塔(とう)山(九六一・二メートル)の北山腹にある。北は裾花(すそばな)川がめぐり、鬼無里(きなさ)道(現県道長野―白馬線)が東西に通ずる。村名の初見は慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)で「七百九拾八石三斗壱合 小鍋村」とある。元禄の松城領高辻帳の添目録(大日方文書)に、枝村として日向(ひなた)村・田中(たなか)村・千木(せんぎ)村・沢(さわ)ノ入(いり)村・平石(ひらいし)村・栃木(とちのき)村・国見(くにみ)村・百瀬(ももぜ)村・下湯山(しもゆやま)村・上湯山村の一〇ヵ所を記す。 小鍋村こなべむら 静岡県:賀茂郡河津町小鍋村[現在地名]河津町小鍋湯(ゆ)ヶ野(の)村の西、河津川の中流域に位置する。南西流して河津川に合流する小鍋川沿いの谷を中心に集落がある。天正一四年(一五八六)九月一九日の北条氏直判物写(相州文書)と北条家朱印状写(同文書)によれば、山木大方(北条氏康の妹)の菩提を弔うため相模高源(こうげん)院(現神奈川県小田原市高長寺)に「河津之内小那部村」の渡辺買得分二〇貫文を寄進し、年季明けののちは替地を約束している。文禄三年(一五九四)の検地帳には小鍋村とある(増訂豆州志稿)。江戸時代の領主の変遷は笹原(ささはら)村と同じ。元禄郷帳によると高一一三石余。「掛川誌稿」によれば家数三四・人数一六〇。 小鍋村おなべむら 山形県:西田川郡温海町小鍋村[現在地名]温海町小名部(おなべ)羽越国境の日本国(にほんこく)の北東山麓、鼠(ねず)ヶ関(せき)川中流に位置。小国(おぐに)街道が通り、北は小国村、南は堀切(ほりきり)峠を越えて越後国岩船(いわふね)郡小俣(こまた)村(現新潟県岩船郡山北町)。小名部・小名辺・尾鍋とも記され、東方に枝郷の平沢(ひらさわ)村がある。国境に近接するため戦国期は上杉・最上両勢角逐の場となり、「夏目記」は小鍋城があったとするが、小国城の誤りともいわれ(筆濃余理)、つまびらかでない。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に小名辺村とみえ、高二一七石余。寛永三年庄内高辻帳には小鍋村とみえ、高二一八石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by