尾上町(読み)おのうえちよう

日本歴史地名大系 「尾上町」の解説

尾上町
おのうえちよう

[現在地名]岡山市南中央町みなみちゆうおうちよう中央町ちゆうおうちよう

外堀西側で西にし川との間に位置する。南北の道を挟む両側町と大雲寺だいうんじ町を挟む外堀端の片側町からなる。東は道を隔て外堀・大雲寺町、細堀を隔て大工だいく町、南は細堀と道を隔ててさくら町、西は高砂たかさご町・浜田はまだ町と七軒しちけん町武家屋敷。寛永城下絵図では町名の記載はなく、慶安城下絵図では「二郎三郎町」、延宝二年(一六七四)御触留(国富文書)では「おママ町」。

尾上町
おのえまち

面積:一九・二一平方キロ

津軽平野の東南端に位置し、北東は黒石市、西は弘前市、北は田舎館いなかだて村、南は平賀ひらか町に接する。

大正一五年(一九二六)猿賀さるか村の小作人が地主の土地返還要求に対し、永小作権を主張して闘った猿賀村小作争議が起こったが、小作人の敗北に終わった。昭和二年(一九二七)弘南鉄道の弘前―津軽尾上駅間が開通して以来、弘前の経済圏に入る。米と林檎が主産。園芸も盛んである。猿賀にある盛美せいび園は、明治三五年(一九〇二)から九年を費やして完成した大石武学流の代表的名園で、清藤氏書院庭園とともに国指定名勝。

尾上町
おのえちよう

[現在地名]南区鰻谷西之うなぎだににしの

長堀ながほり拾丁目の南にあり、西も同町。鰻谷通の北向きの片側町。明暦元年(一六五五)には鰻谷西七丁目といい、延宝八年(一六八〇)に尾上町となった(南区志)。明暦元年の大坂三郷町絵図では鰻谷西七丁目は鰻谷七丁目西町となっている。初発言上候帳面写によると旧名を「黒谷町」といった。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数二八・役数二八役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報