山家村(読み)やまえむら

日本歴史地名大系 「山家村」の解説

山家村
やまえむら

[現在地名]筑紫野市山家

天山あまやま村の東にあり、大根地おおねち山南麓から南西へ流れ下る山家川の上流域に位置する。南東夜須やす曾根田そねだ村・砥上とかみ(現夜須町)、南は同郡中牟田なかむた(現同上)など、南西は同郡朝日あさい(現同上)。山家川沿いに北西から南西に長崎街道が通り、筑前六宿の一つ山家宿(山家町)があった。また北西から南東に日田街道が通っていた。山家庄の遺称地で、中世には夜須郡に属していたと考えられる。小早川時代の指出前之帳では山家村は御笠みかさ郡として記され、田七六町一反余(分米一千一五九石余)・畠一七町一反余(分大豆九四石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高は一千六七〇石余(慶長石高帳)。同年一二月二三日、全村が桐山孫兵衛(丹斎)の給知となる(「黒田長政知行目録」桐山家文書)。福岡藩初代藩主黒田長政のとき冷水ひやみず峠の南に馬牧が置かれたが、まもなく廃止された(続風土記)。元禄五年(一六九二)には高一千七四四石余、家数一五七・社二・寺四、人数一千二四八(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も一千七四四石余。元禄国絵図によれば山家川上流側に山家村の内として浦下うらのした村・上西山かみにしやま村・茶屋原村が記される。

山家村
やまがむら

[現在地名]綾部市戸奈瀬となせ町・釜輪かまのわ町・広瀬ひろせ町・橋上はしかみ町・あさひ町・東山ひがしやま町・鷹栖たかのす町・西原にしばら町・下替地したのかち町・上原かんばら町・下原しもばら町・和木わぎ

何鹿いかるが郡の東部、由良川本流と上林かんばやし川の合流点付近を中心とする地域。由良川が深く谷底をえぐり河岸段丘の発達が著しい。東は船井郡才原さいばら立木たちき両村(現和知町)、北は上林川をさかのぼって十倉とくら村、また山入やまゆりからよこ峠を越えて八田やた梅迫うめざこ村に至る。西は綾部郷味方みかた(北岸)野田のだ(南岸)

郡内東部の交通の要地で、丹後田辺たなべ(現舞鶴市)より京都に至る京街道(田辺街道)が村を横断し、上林谷を経て若狭の本郷ほんごう(現福井県大飯郡大飯町)に通ずる若狭街道の分岐点でもある。

山家村
やんべむら

[現在地名]山形市上山家町かみやんべまち下山家町しもやんべまち・山家町二丁目・山家本町やんべほんちよう一―二丁目・鈴川町すずかわまち一―四丁目・双月町そうつきまち一―四丁目・和合町わごうまち一―二丁目・ぬま辺町べまち五十鈴いすず一―三丁目・大野目だいのめ一―四丁目・近田ちかだ

大野目村の南に位置し、馬見まみさき川扇状地の扇端部と奥羽山脈西麓丘陵に立地。山間に湧く数ヵ所の泉を中心として早くから開け、山形地方における最も古い集落の一つと伝えられている。現上山家町の修験一明院跡である糠塚ぬかづかに「貞治七戊申三月日、月山行人結衆等、已上百余人敬白」の銘がある板碑がある。「月山行人結衆碑」「弥陀三尊板碑」ともよばれ、県指定文化財。これは城下両所りようしよ宮の役僧一明院が貞治七年(一三六八)一〇〇余人の行人を引連れ月山詣した記念碑である。また室町時代後期に一明院僧により造立された石碑も残存する。

山家村
やまがむら

[現在地名]市川大門町山家、下部しもべ町山家

黒沢くろさわ八之尻はちのしり両村の南、御坂みさか山地の北西端台地に立地。四尾連しびれ藤田とうだ堀切ほりきり近萩ちかはぎ清水しみず芦久保あしくぼ(芦窪)帯那おびなの七集落が散在する。市川五ヵ村の一で、市川山家村ともいう(甲斐国志)。慶長古高帳にみえる狩家かりや(高九〇石余、幕府領)が当村にあたるとされ、現在も狩家の字名が残る。寛永元年(一六二四)の四郡村高帳に山家村とみえ高二四六石余、幕府領。文化(一八〇四―一八)初年の家数一九八・人数八四三、馬三六(甲斐国志)。帯那は開拓者小尾氏の名田名に由来するといい、しん川の谷頭盆地に立地する。延宝三年(一六七五)の帯那村検地帳(県立図書館蔵)では、上田六反余・中田二町七反余・下田八反余・下々田六反余、上畑六畝余・中畑七反余・下畑二町六反余・下々畑五町七反余・山畑四町七反余・苅生畑(焼畑)四町二反余、屋敷一反余。

山家村
やんべむら

[現在地名]天童市山元やまもと泉町いずみちよう一―二丁目・老野森おいのもり一丁目・糠塚ぬかづか二丁目

鵜沢うざわ(七三〇・六メートル)の西斜面、若松わかまつ山から西流する古瀬ふるせ川の渓谷に沿う山麓の村で、東部山中には古代以来の歴史をもつ若松じやくしよう寺があり、その門前集落であった。南は山麓伝いに貫津ぬくづ村、西は老野森村久野本くのもと村。若松寺の観音堂には多くの落書があるが、そのうち屋根裏柱に永禄六年(一五六三)六月二〇日の日付で「やんべ大工高橋新兵衛 天童山べ之内大く高橋木左衛門」とある。この観音堂は当地の大工により作られたと思われる。

山家村
やまがむら

[現在地名]三次市山家町

三原みはら村の北東に位置し、北西から北にかけては神之瀬かんのせ川が蛇行して流れるが、南の高津原たかつばらなど一部も神之瀬川に面し日下ひげ村に対する。南北に長い村で、東は西河内にしこうち小文おぶみの両村。村域の大部分は山で、よく開析された谷々と神之瀬川流域の各地に民家と耕地が分散する。村の東南端から西北端に雲石路が通り、西北端付近の神之瀬川には川船渡があった。

江戸時代は広島藩領であるが、寛永九年(一六三二)から享保五年(一七二〇)までは三次藩領。元和五年(一六一九)の備後国知行帳では西河内村に含まれて記され、村名はない。明暦三年(一六五七)の三次藩検地で初めて独立村とされ、三三二・九一八石の高付が行われている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報